内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

集中講義第四日目 ― 誰が言ったかではなく、何がそこで語られ、共有されたかが大切なのだ

2019-08-01 23:52:59 | 講義の余白から

 教師は喋るのが商売であるから、学生よりはその点長けているのは当たり前だ。私のような木っ端教師でも、学生たち相手に話すとなれば、それなりに経験を積んでおり、いただいたお題について、なんの準備なしでも、二三時間ならいつでも話せる。ましてや、自分で選んだテーマについて自由に話してよいということになれば、これはもういくらでも話せる(そんな話、別に聴きたくないんですけど、とか言う奴には、やらねぇよ、単位)。
 今回の演習に関して言えば、最終的なテーマである souffrance は集中講義で取り上げるテーマとしては初めてだが、このテーマについて話す準備は帰国以前に十二分にしてあるので、直前の最終準備の段階であまり作り込みすぎないように気をつけた。というのも、あまりにもできあったプランに沿って話すと、学生たちはそれだけで圧迫され、萎縮してしまいかねないからだ。話すこちら側もその場で生じる自発性に欠ける話し方になりがちだ。
 わざと隙を見せるというようなあざとい手を使うつもりはもちろんないが、学生たちが思い切って打ち込みやすいようにゆるく構えはする。予想通り打ち込んでくる。そこでいきなり返り討ちにして一本取っては元も子もない。しかし、親が幼い我が子と相撲を取るときのように、わざと負けてあげるのも論外だ。彼らがまだ自覚していない潜在力を発揮させるところまで行ければ理想的だが、そこまでいかずとも、彼らがリスク覚悟で踏み込もうとするところまで導くのは教育技術の問題だ。その技術の実践が、稽古をつける、ということだと思う。
 明日の集中講義最終日は、五日間の稽古の総仕上げである。













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