内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ロンドンの公園で若きラフカディオ・ハーンが聞いた父母未生以前の聲 ― 『心―日本の内面生活の暗示と影響』にふれて

2018-02-03 18:30:04 | 読游摘録

 西田幾多郎は、1914年に友人田部隆次が出版した『小泉八雲伝』(早稲田大学出版部)に序文を寄せている。その中にラフカディオ・ハーンの文学者としての特質をよく捉えていると思われる次のような記述がある。

 ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であった、かれは我々の単純なる感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じたのみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。氏に従えば我々の人格は我々一代のものでなく、祖先以来幾代かの人格の複合体である、我々の肉の底には祖先以来の生命の流が波立って居る、我々の肉体は無限の過去から現在に連なるはてしなき心霊の柱のこなたの一端にすぎない、この肉体は無限なる心霊の群衆の物質的標徴である。(『思索と体験』所収、『西田幾多郎全集』第一巻、2003年、326頁)

 ハーンが1896年に出版した『心―日本の内面生活の暗示と影響』(KOKORO: Hints and Echoes of Japanese Inner Life)に収録されたエッセイ「門つけ」(“A Street Singer”)の中に、二十五年前にロンドンでどん底生活を送っていた十七歳から十八歳にかけての頃の自分の想い出がふと挿入されている。その話はとても印象深く、そこに込められた思想は上掲の西田の見解とも照応する。
 ある夏の夕べのこと、ロンドンの公園を歩いていたハーンは、ひとりの少女が「おやすみなさい」と通りがかりの人に言っているのに気づく。

 One summer evening, twenty-five years ago, in a London park, I heard a girl say “Good-night” to somebody passing by. Nothing but those two little words,— “Good-night.” Who she was I do not know: I never even saw her face; and I never heard that voice again. But still, after the passing of one hundred seasons, the memory of her “Good-night” brings a double thrill incomprehensible of pleasure and pain, — pain and pleasure, doubtless, not of me, not of my own existence, but of pre-existences and dead suns.

 少女の「Good-night」という聲は、単にその少女一個の肉体から発された言葉ではない。それは滅び去った数多の歳月の積み重ねからなる「前世」からの、父母未生以前からの響きを、今、ここに伝えている。だからこそ、若きハーンの暗鬱な心を捉えたそのときの少女の聲は、それを聞いてから四半世紀も経った今もなお、曰く言い難い悦びと苦痛をもたらす、と言っているのだろう。
 言葉は、西田が言うところの「過去幾千年来の生の脈搏」であるからこそ、このように時を通じて時を超えた「繋がり」あるいは「結び」がいつでも起こりうるのではないだろうか。












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