内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「私は日本語がわかります」― 日本語についての省察(1)

2013-06-26 22:00:00 | 日本語について

 現在、本務校の日本語の授業としては、修士の「日本経済」を担当しているだけだが、日本語初級・中級の文法・作文などの授業を十数年に渡って受け持ってきた。それらの授業での学生たちからの質問や彼らが繰り返す間違いを通じて、私自身日本語における物の見方について考え直させられることがしばしばあり、学生たちへの説明を工夫していく中で、明確になった見解がいくつかあるので、それらを今日から5回に渡ってメモ風に記しておきたい。

 「私は日本語がわかります。」 一見ごく簡単に見えるこの文は、しかし、日本語文法についてのいくつもの問題を含んでいて、それを一通り説明するだけでも数回の授業を必要とするくらいなのだ。日本語を学び始めたばかりの人が、ほとんど文法的説明を受けていない段階で « Je comprends le japonais (I understand the Japanese). » は、「私は日本語がわかります」と言うと、どこかで聞き覚えたとしよう。そして、「私」は人称代名詞一人称単数、「日本語」は日本語のこと、「わかります」が述語動詞だということは学習済みだとしよう。そこからその人は次のように推論するだろう。「私」はこの述語動詞に対する主語であり、元の仏文あるいは英文の動詞 comprendre/understand は他動詞であるから、フランス語文法で言えば、直接目的格補語COD、英文法で言えば、目的語 O を必要とする。その COD あるいは O が「日本語」である。とすると、「わかる」は他動詞でなければならない。「日本語」の直後にある「が」は、「日本語」が他動詞「わかる」の COD あるいは O であることを示す記号だろう。こう推論することだろう。実際、毎年そう誤って推論する学生たちをたくさん見てきた。もちろん助詞についてまったく無知であれば、「が」が動詞の一部なのか、一つの文法的機能を担った要素なのかわからないし、文末の「ます」は動詞ではなく、丁寧語として、聞き手に対する敬意を表す助動詞だということもわからないわけだが、今はそれらの点は脇に除けておく。それにもっと大きな問題である「は」の機能についても今日は立ち入らない。「日本語がわかる」という文の理解という問題に今日は限定する。
 学生たちが混乱するのは、以上のように推論した後に、日本語では、いわゆる主語となる名詞は助詞「が」をその直後に伴い、他動詞に相当する動詞に対する目的語を示す時は助詞「を」を当該の名詞の直後に付けると習うからなのだ。彼らはフランス語あるいは英語からの推論で、「わかる」は他動詞だと思い込んでいる。だから目的語を示すためには「が」ではなく、「を」を付けなくてはならないと考える。そこで「日本語をわかる」という誤った文を作ってしまう。そして教師から、そこは「を」ではなくて「が」だと訂正される。しかし、それは他動詞一般の目的語に関する規則に反するではないか。なぜ「が」であって、「を」ではないのか。これに対して、日本語学習書の中には、実にいい加減としか言いようのない説明をしているものもある。それによると、これは「わかる」や知覚動詞の場合の「が」の特殊用法で、この場合、「が」は目的語を示している、というのである。私に言わせると、これは完全に誤っている。
 以下が私の説明である。「が」はあくまで主語を表す。もちろん日本語文法の中に、印欧語由来の「主語」という概念を導入することの当否も当然問われなくてはならない大きな問題なのだか、その問題にもここでは立ち入らない。上記の例文について今日問題にしたいことは、「わかる」は他動詞ではない、ということである。つまり、「わかる」は、 comprendre や understand のような他動詞とは別の事態・様態を示しているのである。「わかる」は、「雨が降る」や「日が昇る」の「降る」「昇る」と同じように自動詞なのである。では、「わかる」は何を意味しているのか。この問には、高校程度の日本古典文法の知識があれば簡単に答えられる。「わかる」は、「(物事が)分離する、別々になる」という意味、そこから「おのずと区別がつく」という意味も出てきて、その用例は、たとえば『源氏物語』の中に確認できる。つまり「わかる」とは、「(物事が)他のものからはっきりと区別され、それとして認識可能なものとして与えられている、あるいは現れている」ということを意味しているのである。したがって、「日本語がわかる」という文の意味しているところは、「日本語がそれとして他からはっきり区別できるものとして、つまりそれとして明瞭な仕方で与えられている、あるいは現れている」ということなのである。この文には、「誰にとって」ということは情報として含まれていない。ただ、当然のこととして、このような仕方で日本語が与えられているとき、日本語はそれとして理解されているということが事柄の中に含意されているわけで、その理解している人が「私」であることを示す必要があるとき、「私は日本語がわかる」と言うのである。だから、逆に、「私」の事であることが文脈から自明な場合は、「私は」と限定する必要さえないし、誰かに質問する場合でも、その人の事だということが会話の当事者間で自明であれば、わざわざ「あなたは」と言って、明示的に限定することなく、ただ、「日本語がわかりますか」と聞くだろう。以上のように考えることができれば、上に挙げた仏文や英文が「私は日本語がわかる」の訳として間違っているとまではもちろん言えないとしても、これら日本文と欧文とを安易に等式で結ぶことが、誤解を生み、まさに「日本語がよくわからない」という事態を招きかねないことがよくわかるであろう。
 同様な説明は、知覚動詞についても与えることができる。「海が見える」「鐘の音が聞こえる」― これらの文における「見える」「聞こえる」も自動詞である。前者は「海が見えるものとして立ち現れている」、後者は「鐘の音が聞こえるものとして響いている」ということを意味しているのであって、「誰にとって」ということは文自体には情報として含まれていない。言い換えると、これらの文と、「私は海を見ている」「私は鐘の音を聞いている」とは、同じことを意味しているのではないということである。前者は、知覚世界のそれとしての立ち現れ方を、後者は、知覚世界に対する私の関わり方を表現している。同様に、「日本語がわかる」は、日本語の立ち現れ方を、「私は日本語を理解する」は、日本語に対する私の関係を表現しているのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿