内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈主体〉再考(1) ― 今西・ユクスキュル・ギブソンを手掛かりに

2018-02-20 13:16:26 | 哲学

 主体概念について、今西錦司『生物の世界』、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』、J・J ・ギブソン『生態学的視覚論』の三書を手掛かりに、今日から時間をかけて考察してゆく。
 これは6月30日のイナルコでの発表の準備作業の一環としてである。その発表は、すでに1月25日の記事で取り上げたように、シモンドンの個体化の哲学が開く視角から西田における主体概念と田辺における個体概念とを読み直すのが主たる目的だが、その考察を現代思想のより広い文脈の中に位置づけるために、上掲三著に見られる生命観・生物学的世界観・生態学的世界観における主体概念を、粗略な仕方にとどまるとしても、ひととおり検討していおきたい。
 一昨年のシモンドン論のときような毎日連続の長期連載という形は取らない。そこまでの準備はできていない。他の話題を取り上げる記事の合間に、間歇的に、研究ノートの一部を公開するようなつもりで投稿していこうと思っている。

 今日から何回かは、今西錦司『生物の世界』の仏訳を手掛かりとして、今西自然学における〈主体〉概念の特異性を瞥見する。
 今西錦司の古典的名著『生物の世界』の初版が弘文堂から出版されたのは1941年である。戦後も全集版や文庫版などで繰り返し出版されている。現在では、中公クラッシクス版(2002年)がもっとも入手しやすいだろう。1972年初版発行の講談社文庫版は、2011年に電子書籍化されている(用語検索にはこの電子版が威力を発揮してくれる)。他の版としては、燈影舎『京都哲学撰書 第19巻 今西錦司 行為的直観の生態学』の中に、「序」以外は全文収録されている。この燈影舎版には、生命科学者の中村桂子による、いささか冷めた、しかし示唆に富んだ解説が巻末に付されていて、同撰書の中で異彩を放っている。
 『生物の世界』の仏訳 Le monde des êtres vivants. Une théorie écologique de l’évolution, Éditions Wildproject, coll. « domaine sauvage » が出版されたのは、初版出版からちょうど70年後の2011年のことである。 かなり問題の多い訳であると言わざるをえない。この仏訳だけを読むと、今西の自然観を誤解してしまうどころか、まったく逆さまの意味に取り違いかねない。
 『生物の世界』には、「主体」「主体的」「主体性」「主体化」など、「主体」及びそれを含む表現が百箇所以上で使用されている。この主体概念をどう理解するかが同書の理解にとって鍵になる。ところが、もともとは « sujet »(subject, Subjekt)の翻訳語だった「主体」が今西において意味するところは、もはやその原語の意味を超え出てしまっている(この日本に固有な〈主体〉概念の生成と展開、及びそれが孕む諸問題は、今西だけのことではなく、京都学派だけの話でもない。この点については、小林敏明『〈主体〉のゆくえ―日本近代思想史への一視角』講談社選書メチエ、2010年を参照されたし)。
 案の定、仏訳者は、「主体」およびそれを含む合成語を必ずしも sujet, subjectif, subjectivité などを用いて訳していない。例えば、「環境の主体化」(「四 社会について」、中公クラッシクス版、132頁)は、« autonomie sur l’environnement »(op. cit., p. 127)となっている。訳者が今西における主体概念を理解できていないことの証左の一つである。それどころか、これらの語が出てくる箇所を、おそらく故意に、訳し落としている場合も少なからず見られる。
 しかし、誤訳や訳の不備の指摘がここでの目的ではないことは言うまでもなかろう。この〈主体〉の « sujet » からの乖離と、それが引き起こさざるをえないパラダイム・シフトこそが私たちの問題である。











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