シモーヌ・ヴェイユを読むことは、私にとって、元気づけられるとか、勇気を与えられるとか、慰められるとか、他の書物や物事によっても与えられうるなんらかの「癒やし」を求めてのことではない。学術的な研究の対象としてでもない。魂の飢渇がヴェイユへと向かわせる。それは、しかし、飢渇感がいくらかでも軽減されることを期待してのことではない。むしろ、飢渇状態にごまかしなく向き合うためだ。そこになんらかの救いがあるわけでもない。だから読んでいて辛くなることもしばしばある。だったら読まなければいいではないか。ところがそうはいかない。生きのびるためになくてはならない「糧」なのだ。
『根をもつこと』の次の有名な一節も、私は「根こぎ」状態であり、私には何が決定的に欠けているのかを自覚させる。その欠如を補うなにかを与えてくれるわけではない。何もせずに待っていれば与えられるわけもない。欠如が長期にわたれば魂はそれだけ疲弊し、打ちひしがれ、まがいものでその欠如を満たそうとする誘惑に負けやすくなる。辛うじてその誘惑に抗い、欠如態に留まること、そのような水際の攻防で日々が過ぎてゆく。
L’enracinement est peut-être le besoin le plus important et le plus méconnu de l’âme humaine. C’est un des plus difficiles à définir. Un être humain a une racine par sa participation réelle, active et naturelle à l’existence d’une collectivité qui conserve vivants certains trésors du passé et certains pressentiments d’avenir. Participation naturelle, c’est-à-dire amenée automatiquement par le lieu, la naissance, la profession, l’entourage. Chaque être humain a besoin d’avoir de multiples racines. Il a besoin de recevoir la presque totalité de sa vie morale, intellectuelle, spirituelle, par l’intermédiaire des milieux dont il fait naturellement partie.
根をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な要求であると同時に、もっとも無視されている要求である。定義することがもっとも難しい要求のひとつでもある。人間というものは、過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きと保持している集団の存在に、現実の活動的で自然な参与によって、根をもつ。自然な参与とは、場所、出生、職業、身近な人たちによっておこなわれる参与である。各々の人間は多種多様な根を必要とする。自分が自然なかたちで参与しているさまざまな環境を仲介として、道徳的・知的・霊的な生活のほぼすべてをうけとる必要がある。
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