内的自己対話-川の畔のささめごと

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人類が作り出してしまった現代の荒ぶる神 ― 『肥前国風土記』「佐嘉郡」に触れて

2020-07-24 20:42:54 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げたハルオ・シラネの『四季の創造』の中に、『肥前国風土記』「佐嘉郡」を引いた一節がある。その段落を引く。

 古くから日本人は稲作のために原野を開墾した。古代に始まり平安時代から中世にかけて拡大した荘園制度にとって、新田の開発は最重要事項の一つであった。未開地を田に変えていく過程で、より多くの耕作可能な土地を作り出すために、人々は躊躇することなく大木を伐採して森を切り開き、動物を殺した。古代においては、野生の自然は「荒ぶる神(邪悪で人間に害をなす神)」の領域とみなされていた。『肥前国風土記』の「佐嘉郡」のくだりには佐嘉川の荒ぶる神の描写がみられる。

一ひと云へらく、郡の西に川有り。名を佐嘉川と曰ふ。年魚あり。其の源は北の山より出で、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神有りて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。

 古代から土地開発はあったのであり、野生の自然を統べる荒ぶる神の怒りを買うような環境破壊は現代だけのことではない。例えば、平城京の周辺の山々は、乱開発によって樹木がなく、保水力が低下した。そのため、ちょっとした大雨でも、一気に雨水が都を襲うことになり、土砂が流出した(『平城京誕生』角川選書 2010年)。
 しかし、現代の気候変動とそれが引き起こす豪雨等の自然災害は、そもそも人間には制御できない荒ぶる神の仕業とは言えないのではないだろうか。人類による歯止めなき環境破壊が荒ぶる神を造り出してしまったのではないか。
 だとすれば、その荒ぶる神を敵と見なし、それへの戦いを挑むことは、とんでもない的外れ、あるいは意図された責任回避でしかないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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