内的自己対話-川の畔のささめごと

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『到来するものを思惟する』(九)― ネオ・コロニアリズム、フェミニズム、社会不平等起源論

2015-03-27 22:16:26 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の最終章第八章は、現代社会の諸問題の中から、特にネオ・コロニアリズム、フェミニズム、科学技術、エコロジーが取り上げられている。
 日本に限らず、フランスでも「ポスト・コロニアリズム」という言葉が大流行だが、したがって、この言葉も、その他の流行語同様、近い将来に藻屑のように消えていくであろうが、この対談では、現代はむしろ「ネオ・コロニアリズム」の時代として捉えられている。
 主にアフリカ諸国が念頭に置かれての話だが、「ネオ・コロニアリズム」を一言で要約すれば、かつての植民地に政治的に「自由」と「独立」を与えて、植民地時代に終わらせた後、その同じ過去の植民地諸国に、今度は、経済的援助と引き換えに、自然資源を搾取することによって再び支配下に置くことである。
 こうした経済的帝国主義は、過去の植民地支配に対する修正主義と表裏をなしている。その修正主義は、植民地主義の積極的側面を強調する。一言で言えば、政治・経済・文化・教育・医療・インフラ等など、「未開」世界に「文明」をもたらした貢献を強調しつつ、「悪いことばかりじゃなかったし、こっちが与えてやったもののお陰で、あいつらも、それまでは野蛮な状態だったのに、今となっては、政治的独立を獲得し、経済的にも発展することができたんじゃないか」と開き直るわけである。
 このような考え方の背景には、ヨーロッパ先進諸国のもうなんとも抜きがたい自民族中心主義がある。彼らは、自分たちは世界全体に通用する「普遍的なもの」を歴史的に他の諸地域に先んじて実現し、現実のシステムとして具体的に適用してきた「最も優れた」民族であるから、その他の「遅れた」地域にもそのシステムは適用されるべきである、と考えるわけである。それこそ時代遅れの世界観だという批判には耳も貸さずに、その解体されるべき幻想にいまだにしがみついているのは、なにも政治家たちには限らず、あろうことか、市民の先頭に立って権力に対して言論によって立ち向かうべき知識人・文化人の中にも少なくはないのである(彼らの中には、大きな声ではそうは言わない「賢い」連中も多いから、なおのこと質が悪い)。
 ダスチュール先生は、フェミニズムには、批判的とまでは言わないにしても、非常に警戒的である。なぜなら、社会的不平等の根源は、男女間格差・差別ではないと考えているからだ。もちろん男女間格差・差別が現実社会のいたるところにあることは、彼女も認めているし、それを放置しておいていいとも思っていない。しかし、男女間格差・差別のすべての原因が男性の側にばかりあるのではなく、女性の側にもそれを助長するような態度・生き方をしている人たちが少なくないという。こんなことをもし男性が不用意に口にすれば(私はしませんよ、臆病者ですから)、たちどころに世の良識と教養を備えた女史たちから、「男性優位主義者」「性差別主義者」とレッテルを貼られて、袋叩きにあうことであろうが、それを女性であるダスチュール先生が言っているのである。
 先生は、社会の不平等を現実的に決定づけているのは、性差でもなく、肌の色でもなく、社会的地位と貧富の格差だとずっと思ってきたという。このような確信には、やはり自分の貧しい労働者階級という出自が反映していることは否定できないだろう。
 より具体的には、手仕事・手作業を貶める価値観の支配する階級社会こそが不平等の起源だということである。今日の民主主義社会もそのような価値観から少しも自由になっていないどころか、ますます深刻化していると先生は見る。若きマルクスが夢見たような、諸個人が、一つの職業に縛られることなく、「朝に狩り、午後は釣り、夕べには家畜の飼育、夕食後には批評家と、好きなように選びつつ、しかもそのいずれの専門家にもならない」ような社会から、現代はますます遠ざかろうとしているのである。
 明日の記事では同章の後半、科学技術に支配された現代社会とエコロジーの問題を論じている箇所を紹介する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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