内的自己対話-川の畔のささめごと

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パース哲学における二つの基本的態度 ― 鶴見俊輔『アメリカ哲学』を読みながら(承前)

2013-12-31 17:11:09 | 読游摘録

 鶴見俊輔『アメリカ哲学』は、第二章と第三章とがパースの紹介に割かれていて、それぞれ「パースの人と思想」「パースの意味」と題されている。詳細な研究とは言えないが、当時としては、日本で初めてのパースの人と思想とその業績の哲学的意味とについてのまとまった紹介として貴重だったのに違いない。私自身今回この二章を読むことで多くのことを学んだ。
 その他の「形而上学クラブ」のメンバーが主にイギリス哲学の影響下に自らの哲学を形成していったのに対して、パースだけがドイツ古典哲学から哲学に入っている点ですでに一人際立っている。青年期に三年間以上、カントの『純粋理性批判』を毎日二時間ずつ読んだ結果、とうとうこの大著を暗記するくらいにまでなったという。プラグマティズムという命名はパースによるものだが、それはカントのプラグマティッシュに由来することから考えても、この事実は単にパース理解のためだけでなく、プラグマティズム全体の理解のためにも忘れられてはならないと思う。このカントの用語の原意に忠実にそしてパースの意図に沿って考えるならば、プラグマティズムとは、思想と行為の目的との関係を広く考察する哲学的態度を基本とする哲学的潮流のことで、実用主義、実際主義、道具主義、行為主義等の訳語はその一部しか覆うことができないという意味で不適切であるし、プラグマティズムをアメリカ製の自己社会に好都合な軽佻浮薄な哲学と言って安易に批判することもできないことがわかる。ちなみに、フランスでもつい最近までプラグマティズムに対するこうしたそれこそ軽蔑的な軽視あるいは無視が主流であった。ジェイムズに対してだけは、ベルクソンとの交流があったために別格扱いだったが、それでも『宗教的経験の諸相』を除けば、フランス哲学界で積極的に研究されてきたとは言えない。
 パースの哲学上の古典の読み方は、しかし、カントに対してのみならず、最初から非常に独特であったようである。以下、鶴見俊輔『アメリカ哲学』からの引用。

「六歳の時からほとんど引続き実験室に居住して来た」知性は、どんな主張を聞かされても、それを次のように解釈しようとした。「これこれの実験をするならば、これこれの経験に出会うであろう」という形に、彼は、あらゆる主張の意味を翻訳し直すのである。そしてかかる実験条件に翻訳できないような主張は、意味なき主張として投げすててしまう。このような実験科学者の心をもって、パースは、哲学上の古典を広く読み漁った。こうして見ると哲学者の書いたものには、意味のないものが多かったが、それでも、スピノザ、カント、バークリー、スコトゥスなどの書物の中には実験科学者の知性をもってしても信用し得るところの多くの意見を発見し得た。このような彼一流の読み方こそ、後にパースをして、全く独創的な哲学者として思想界に登場せしめるための訓練を与えたのだった(18頁)。

 鶴見によると、パースを理解する上で、もう一つ重要なことがあるという。それはパースが実験科学者としての「謙遜さ」を持っていたことである。

「人間は間違い易いものだ」ということが、彼らには、身にしみて分っている。[中略]とにかく分野のいかんを問わず、実験を何度も何度も重ねたことのある科学者は、いずれも、自分の意見について謙遜な心持を抱く癖がついてしまう。[中略]科学者はだいたいにおいて、謙遜な態度で、自身の意見を眺め、したがって、常にそれを不確かなものとして把握しているのである(18-19頁)。

 これら二つの態度 ― 「自分並びに他人の意見を、常に、まちがっているかも知れぬものとして把握する」ことと「哲学的意見でも何でも、意見の意味を常に、ある実験条件と結び合して考える」ことと ― を、鶴見は、パースの「考え方の癖」と呼び、パースの思想体系はこれら二つの「癖」に沿うて展開されたという(19頁)。
 パース哲学の個々の主張を受け入れるか否かにかかわらず、この二つの態度を、私自身、これからの自らの哲学研究の基本的態度としていきたいという願いをここに記すことをもって、今年2013年最後の記事の締め括りとする。












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