内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

声に出して、論理的に明晰な文章を繰り返し読む

2017-09-17 18:43:07 | 講義の余白から

 学部一年生以外の学年、つまり学部二・三年と修士一・二年の講義や演習は一つないし二つ担当しています。そのどの授業でも毎年最初に学生たちに言うことの一つが音読の大切さです。はっきりと大きな声に出して、正しくテキストを読むことがコトバの習得にとってどれほど大切かを力説するのです。でも、残念ながら、それを家で実行してくれている学生はほとんどいないようです。今さら音読なんて、小学生じゃあるまいし、と小馬鹿にしているようなところがあります。
 もちろん、中身のないつまらないテキストを声に出して読むのは気が進まないでしょう。それは私も同じです。しかし、フランス語の本を読んでいて、これはいい文章だなあと思うと、私は必ず音読します。何度もします。別に暗記しようというのではありません。その文章の美しさを感覚的に感じ取り、それを体に染み込ませたいのです。
 私の場合、そのように音読する文章は、文学作品以外のことのほうが圧倒的に多い。それは、単にその文章を味わうだけでなく、そこからいわば知的・精神的栄養も吸収して、少しでもそのような文章を見習って、自分でも話したり書けるようになりたいからです。
 ただ、外国語でそれを実行する場合、もちろん読み方の上手下手という問題はあり、さらに基本的なところでは発音の良し悪しの問題があります。音楽でも武術でも、基礎の段階で自己流の悪い癖がついてしまうと、あとになってそれを矯正するのは、あたらしい習い事を始めるのよりしばしば難しいことです。だから、最初は先生につくべきだと思います。
 人数が多いクラスでは全員一人一人テキストを音読させるわけにもいきません。全員斉唱では効果も乏しい。それでも、今年度から私の授業では学年を問わず必ず音読の時間を設けることにしました。
 先日9月14日の記事でも書いたように、修士課程で特にそれを重んずることにしました(もちろん、学部レベルでもそうしたいのはやまやまなのですが、それは時間的にどうしても無理。毎回せいぜい十人程度に読ませるだけでしょう)。修士の一二年合同ゼミでも出席者は自由聴講生一人を含めても十五名だから、毎回全員一人一人に同じテキストを読ませて、個別に徹底的に矯正することにしました。自分の読み方だけでなく、他の学生の読み方を私がどう矯正するかを聴くのもそれぞれの学生にとって勉強になるはずです。
 今日は半日かけて、五回分、つまり五つのテキストを選びました。基準は、話し言葉あるいは手紙の文体であること、言葉遣い・内容が比較的平易であり、且つ、重要な問題提起が含まれていること、議論の展開が明瞭でお手本になること、などです。これらの基準に沿って、学生たちが後で発表の際に応用できるような文章を選びました。
 選ばれた文章の中の一つが丸山圭三郎『ソシュールを読む』(講談社学術文庫)の次の一節です。

 まず、ソシュール的な考え方に立つと、「読む」という行為と「書く」という行為が、実は切り離せません。そもそも表現というものと内容は分離できない存在である。これがソシュールの言語観の根本です。すべての表現作用、すなわち「身振る」「描く」「彫る」「歌う」「話す」「書く」という行為においては表現と内容というものは分離できない。ということは、あらかじめ存在する何らかの既成の内容を何らかの手段で表現するのではないということであり、内容は表現と同時に生れ、存在するということなのです。
 私たちはともすれば、表現とは思考なり情念なりの衣だとかその翻訳であるように考えがちですが、実は思考というものが、その言語表現を見出す以前に一種のテキストとして存在しているのではありません。文学作品の場合でも、作者自身、自分の書いたものと比較対照しうるようないかなるテキストも前もって所有していたわけではない。つまり表現というものは、それ以前には存在しなかったその内容自体をはじめて存在せしめるという考え方です。(36頁)












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