内的自己対話-川の畔のささめごと

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映画『博士の愛した数式』の中の薪御能の場面の意味(承前)

2019-04-20 18:01:41 | 雑感

 昨日の記事の続きで、映画『博士の愛した数式』の薪御能の場面について。
 まず、映画で使われた曲の部分を引く。

思へば假の宿、思へば假の宿に、心留むなと人をだに、諫めしわれなり、これまでなりや帰るとて、すなわち普賢、菩薩と現はれ、舟は白象となりつつ、光も共に白栲の、

 ここで場面が切り替わり、現在時間に戻り、空にかかる虹が画面に大写しになる。そして、川のほとりに一人佇む兄嫁が映し出される。義弟と二人で観劇した薪能を想い出しているのだろう。その後、一瞬、雲が赤く燃えた夕焼け空が映し出され、場面が切り替わる。
 上掲の引用の後に『江口』にはまだ、「白雲にうち乗りて、西の空に行き給ふ、有難くぞ覺えたる、有難くこそ覺えたれ」という最後の一節があるのだが、映画では省略されている。
 『江口』では、僧が夜もすがら読経していると、月の澄みわたる川面に屋形舟が浮かび、遊女たちの姿が見える。遊女の霊は、人の世の迷いが集約されているその環境こそ悟りへつながるのだと語り、舞を舞う。やがて舟は白象と化し、遊女は普賢菩薩となって西の空へ去る。
 ルートの十一歳の誕生日を祝う夕べ、博士から頼まれたルートへのプレゼントのグローブを手渡しに来た兄嫁は、それを杏子に託すと、すぐに母屋に戻ろうとする。杏子は、外に出て、兄嫁を呼び止め、「どうですか、ご一緒に」と誘う。兄嫁は、「今夜はご遠慮します」と断り、杏子に自ら過去の罪を告白し、「わたくしは罪深い女ですから」と悲しげに言う。そして、「すべてを任せますわ」と杏子に博士のことを託し、それまで離れと母屋を隔てていた木戸を開け、「この木戸は、これからはいつでも開いております」と言い残し、その場を立ち去る。杏子は、その後姿を見送り、涙が溢れないように夜空を見上げる。そして、池に映る満月が一瞬映し出され、室内に場面が切り替わる。
 この一連の場面は何を意味しているのだろうか。
 これらの場面の前に、ルートが博士のところに勝手に遊びに来ていることについて杏子を咎める兄嫁に、博士がオイラーの公式 e+1=0 を書いて手渡す場面がある。この後に杏子が博士とルートの誕生日を祝う約束をする場面が入り、その後に薪御能の場面が来る。『江口』のシテ、この世での「罪深い」遊女は、最後には普賢菩薩となって西の空へ去る。
 つまり、博士がオイラーの公式に託したメッセージに対して、兄嫁は、二人で観た薪御能『江口』の回想を介して、「すべてを任せますわ」と「この木戸は、これからはいつでも開いております」と応えたのだ。兄嫁がこのような境地に至る心的過程を暗示するには、薪御能の回想場面は不可欠だと言わなくてはならないだろう。












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