内的自己対話-川の畔のささめごと

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明治期に来日したフランス人画家による日本人の「古いほほえみ」擁護論

2019-01-16 23:59:59 | 読游摘録

 渡辺京二の名著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年。初版、葦書房1998年)は、幕末から明治にかけて来日した異邦人たちの目に映った滅びゆく日本の文明の姿を、彼らのものした著作の徹底した博捜を通じて浮かび上がらせることに成功した、圧倒的な迫力をもった記念碑的著作である。
 著者の文化・文明観に諸手を挙げて賛成することは私にはできないが、本書に集約された異邦人たちの種々の日本観察記・日本観・日本人論は、近代日本とは何かと問うとき、ひいては近代文明とはなにかと問うとき、かけがえのない資料であることは間違いない。
 今年度前期の修士一年の演習でラフカディオ・ハーンの『日本の面影』その他の著作を学生たちと読んできて、ハーンによって描き出された、失われゆく古き美しき日本に感じ入るとともに、それに対して、反発とまでは言わないにしても、違和感も覚えずにはいられなかった。
 『逝きし世の面影』でも、当然のことだが、ハーンについて言及された箇所がある。特に、太田雄三の『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書、1994年)について、「日本文化の最良の理解者」という「ハーン神話」を解体しようとした力作として評価しつつも、その行き過ぎに批判をくわえているところが注目される。
 私が個人的に面白いと思ったのは、ハーンの有名な日本人微笑論に言及している一節で、ハーンのかわりに、日本人の微笑の「弁護人」として、フランス人素描画家のレガメ(Félix Régamey, 1844-1907)を召喚しているところである。そこを渡辺書から引用しよう。

レガメによれば、日本のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。そしてそれは金であがなわれるのではなく、無償で与えられるのである。このようなほほえみ――後年、不気味だとか無意味だとか欧米人から酷評される日本人のてれ笑いではなしに、欧米人にさえ一目でその意味がわかったこの古いほほえみは、レガメが二度目に来日を果たした一八九九(明治三十二)年には、「日本の新しい階層の間では」すでに「曇り」を見せ始めていた。少なくとも、レガメの目にはそう映ったのである。(レガメ『日本素描旅行』雄松堂出版、一九八三年、二三九頁)

 この引用に付された後注には、原著 Japon は出版年度不明とあるが、一九〇三年刊行。現在は稀覯本で 300€ の値がついている(こちらのリンクをご覧あれ)。一八九一年に出版された Le Japon pratique と一九〇五年に出版された Le Japon en images とは、現在 BNUの Gallica で公開されており、無料でダウンロードできる(リンクはこちら)。両著とも、当時の日本人の姿・日本の風景、文化・生活の諸相を知る上でとても貴重な資料になっている。後者の巻末には Japon の紹介文が付されている。
 この古きよき無償の微笑みが失われていくことが日本の近代化の一つの指標であるとすれば、微笑み鬱病(これについては、2017年5月28日の記事を参照されたし)は、病める現代日本の指標であると言えるのかもしれない。












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