内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「二重の異邦人」である現代日本人はどのように日本古代に足を踏み入れるか

2021-05-22 23:59:59 | 読游摘録

 亀井勝一郎の『日本人の精神史 第一部 古代知識階級の形成』を関連する参考文献の検索と並行して読んでいる。古代日本の精神史へのアプローチの仕方を考えるためである。より正確には、七月半ばにする学会発表の準備の一環としてである。この学会での発表のタイトルは二年ほど前から「近江朝と崩壊」と決まっている。これは当時私が提示したアイデアに対して学会主催者が私に提案してきたタイトルであった。異論はないのでそのまま受入れた。日本古代世界における時代を画する崩壊の経験が文学作品にどのように表象されているのかを見ることを通じて、古代人の世界観の変容の一側面に光を当てるのがこの発表の目的である。
 『日本人の精神史』の所説が発表内容に直接関わるわけではないのだが、現代の日本人自身にとって容易には接近し得ない日本古代精神史へのアプローチの方法についていろいろと考えさせてくれる。
 古代史へのアプローチについて、西洋との比較を排し、西洋に学んだ近代的解釈を拒絶したらどうなるかと亀井は問う。そこで亀井は「復原力」という言葉を使う。この復原力とは、亀井によれば、「学究としてのきびしい実証力と、詩人としてのゆたかな想像力との合致」である。「在りし日の原型、古代人の息吹に肉迫しようとする至難の業」だと認めた上で、その「復原力」自体に「すでに「西洋」の影響はつよく作用し、西洋文化からうけたイメージが混入している」と亀井は読者の注意を促す。
 亀井はその「復原力」に混入している「西洋文化からうけたイメージ」が具体的にどのようなものか詳しく説明しているわけではないが、本文から明らかなことは、そのひとつは「思想」という言葉そのものである。「西洋伝来の、堅固な体系と鋭い論理と抽象化能力によってつらぬかれた「思想」」を前提として「日本思想」に向った場合どうなるか。そうすることによって日本思想史を「再編成」することはできるかも知れないが、同時に、「何か重大なものを失ったように思う」と亀井は言う。
 以下に引用する二段落の亀井の所説に私は全面的に同意する。

 「日本思想」などは思想ではない。むしろ一切の伝統を根本から否定し、日本人の頭脳を改革して、全く新たにこれからの「日本思想」を形成すべきであるという論もむろん成り立つわけだ。我々はいまひとつの岐路に立っている。私はさきに二重の性格を帯びた特殊な「飛地文化地帯」と言ったが、ここに生育した我々は、或る意味で二重の異邦人と言ってもよかろう。これほど西洋に学びながら、西洋に対しては異邦人であり、これほど伝統伝統と言いながら、自国のそれに対してもすでに一種の異邦人となっているのではないか。現代の日本論、文化論の根底にあるのは、この浮草的知性を自覚したときの不安であろうと私は思っている。
 日本人の精神史研究というテーマは、私にとっては身にあまる仕事だということはわかっているが、日本史の各時代を通じて、我々の祖先は一体どんな精神生活を送ってきたのか。さきに述べた「飛地」に形成された知的エネルギーの性格と特徴を、この際私は出来るかぎり明らかにしたいと思った。古典とか伝統の名で、断片的に、雑然と、しかも変質しつつ眼前に存在している多くのものがあるが、大切なのは性急な解決でも統一でも解釈でもない。矛盾し混乱している諸要素を、まず出来るだけその原型においてつきとめてみることだ。すでに抜き難く我々の頭に入っている「ヨーロッパ的諸観念」と、それがさらに矛盾するならば、それをも深めてみることだ。私はこういう気持で、まず日本の古代に足をふみ入れようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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