内的自己対話-川の畔のささめごと

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儚き恋愛生活の永遠の形象化 ― 岩波文庫版『和泉式部日記』解説について

2014-11-21 21:00:20 | 読游摘録

 岩波文庫版『和泉式部日記』の校注者清水文雄による本文末の解説は、類稀な名解説である。それは、篤実な学者による書誌的解説でもなく、穏健な専門家による中立的な作品紹介に終わるものでもなく、気鋭の研究者による大胆な仮説の披瀝でもない。学問的裏付けを基礎としながら、詩的感性と思想的洞察が随所に煌めく、優れた文学研究でありかつ見事な文芸批評でもある文章である。同文庫の異なった版を何度か買い直し、この解説を折にふれて読み返しているという竹西寛子は、次のようにこの解説を極めて高く評価している。

 和泉式部の生涯にわたって述べながら、折々の作品との関係を考究してゆく文章は、直接の気分を制した静穏にととのって、テキスト分析の説得力に論の公平は保たれている。しかもその静かな文章の底深さに宿る詩情が文章の弾力となっての読後の余情と喚起力は私にとって、解説文としては抜群のものとうつる。

「耳目抄 ⁕ 315」『ユリイカ』2013年12月号、五五頁。

 その通りであると思う。私自身、この解説を読みながら、次々と喚起されてくるイメージとそこに含意されている実存論的とも言えるような問題によって思考が活性化されるという愉悦的でありながら真剣な読書経験を有つことができた。特に、解説末尾の次の一節は、和泉式部の日記執筆動機についての洞察としてとても深いところまで届いていると思う。

 瞬間といえば、この日記には、「今日の間の」「今朝の間に」「今のほど」「今日明日とも知らず」など、刹那を永遠と見なした語が頻出する。これらの語は、ひとしく異常の不安に裏付けされている。そうした不安は、恋によって刹那的にまぎらされてゆくとすれば、恋の相手を得ることが、とりもなおさず、式部の生の自覚を保証するものであった。「くらきよりくらき」に迷う式部は、魂の救いを書写山の性空上人に求めたこともあるが、けっきょくは、「ふねよせん岸のしるべしらずして」、つかのまの夢である恋に身をゆだねるほかなかった。式部の恋の対象がつぎつぎと変わっていったのも、ゆえあることであった。それらの恋人群のなかで、帥の宮にとりわけはげしい恋情を燃やしたとすれば、それは式部にとって、帥の宮が、現世における恋人として理想的な方であったからであろう。宮の死が、式部を絶望におとしいれた理由もここにあった。数々の挽歌が何よりもそれを雄弁に語っている。式部みずからの手によって、帥の宮との恋愛生活に永遠の形象が与えられる時が到来したのである(一三〇-一三一頁)。

 帥の宮と出逢いから式部の南院入りまでという二人の関係の最初の九ヶ月ほどの時間の中でも際立った刹那に永遠の形象を与えようとする式部の創作行為を、文学的創造による「垂直的脱自(extase verticale)」の一つの実践の形として読むことができれば、それは、とりもなおさず、九鬼周造がそのポンティニーでの仏語講演で提起し、晩年の文学論において解こうとした時間論の問題への一つの実践的解答例として検討しうるということを意味している。





















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