内的自己対話-川の畔のささめごと

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唐木順三『詩とデカダンス』を読む(四)― リルケの「開け」から芭蕉の「風狂」へ

2015-02-19 16:57:48 | 読游摘録

 『詩とデカダンス』における唐木のリルケ解釈が妥当かどうかはここでは問わない。それがつまらない問題だからではない。それは、別の問題であり、今の私にとっては主たる関心事ではないというに過ぎない。唐木の読み筋に導かれながら、リルケの「開け」から芭蕉に代表される「風狂」への途を私自身が辿ってみたいと思うのだ。だから、その行程で、唐木のテキストを杖としながらも、それに寄りかかるのではなく、そのテキストに触発された私自身の受け止め方を書き留めていく。唐木の言いたいことから逸脱してしまうこともあるかもしれない。しかし、私自身が自分の「脚」で歩くことが何よりも大切だろう。それが唐木のいう「思索する」ということだと思う。
 リルケが「もの」(Ding)というとき、そのものは、それぞれに「形」をもっている。しかし、その形とは、それ自体でいつも同じで、対象として同定可能な何かではなく、そのものの「いのち」のその時その場所での現れ方のことで、それは、日本語で「もののあはれ」というときに、それがものに触れて動かされる心のことばかりでなく、そのものの生ける姿そのものでもあるということと、事態としては近い。
 ものは、いのちをもつことで、〈いのち〉という共通の根を分かち合う。それら共通の根を分かち合うものらは、では、どこにあるのか。自然の中にしか、あるいは人間の手作り品のなかにしか、見出だせないのだろうか。しかし、そのような限定の仕方自体が近代主義的な見方に囚われている。むしろ、ものを使うものがそのものと〈いのち〉を分かち合う場所においてはどこでも、ものは生ける形をもつと考えるべきではないか。
 だから、私は、唐木が言うように、「近代資本主義の製品は、機械と技術との所産であり市場の商品であることによって、既に「ものらしさ」(das Dinghafte)を失っている」(90頁)とは、必ずしも思わない。たとえそのようにして大量生産されたものであれ、そのうちの一つのものとそれを使うものとの間にも、親しく掛け替えのない分かち合いはありえないことではないからだ。あるいは、このようなものの受け取り方こそ、よくもわるくも、まさに日本的なのだろうか。
 逆に、自然の中なら必ずものがいのちのかたちとして与えられることが保証されているわけでもないだろう。むしろ、そのような分かち合いが事実成り立つときに、「開け」の中に、ものとそれを「使う私」とが、いのちのことがらとして、分かちがたく結びつきつつ、それぞれに生きた形を与えられるのではないであろうか。
 今まで「いのち」という言葉を使ってきたが、それは、唐木がハイデガーに依拠している場面では、「在るもの」の根拠としての「存在」に相当する。そのような故郷としての「存在」を喪失したのが現代の特徴だというところまでは、唐木はハイデガーをそのまま踏襲している。そして、ハイデガーがリルケの「開け」に技術社会の根本的な超克の可能性を見出そうとするのはなぜかと問う。
 その答えとして、それは「詩人が「無防御」(Schutzlossein)であるということ」だと言う。それは、対象への「主体的な」関係性を放下することである。とはいえ、それは、何もせずになるがままに任せるということではもちろんない。詩人が言葉を紡ぐということは、ものを技術的な無機的連関における対象性から解放し、「開け」への中で他のものらとの生きた繋がりを回復させる試みなのだ。詩の言葉は、風の如く、ものの間を吹き抜け、ものに息吹を吹き込み、その言葉を聴くものの心を開き、ものらと分かち合うべき〈いのち〉に目覚めさせる。












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