内的自己対話-川の畔のささめごと

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『一年有半』から『続一年有半』へ ― 思想の言語の文語から口語へ転換点

2016-01-31 16:35:34 | 読游摘録

 昨日の記事では、中江兆民の『一年有半』の仏訳を平明達意な仏文の例として引用した。当該箇所の日本語原文も、同書の他の箇所に比べれば、難解・難読の漢語少なく、今日の普通の日本語の語彙からそれほどかけ離れてもいない。その点からも良訳だと言える。
 しかし、他の箇所となると、そうは問屋がおろさないところが多々ある。兆民の専門家でさえ読み方に迷うような漢語が鏤められた兆民一流の名文をその特異性を保持しながらフランス語に移すことは土台無理な注文であろう。訳者が訳文の達意を旨とし原文の文体の独特な魅力を犠牲にせざるを得なかったことは想像に難くない。
 例えば、『一年有半』の終りの方にある、当時発表されたばかりの万朝報社の理想団結成の呼びかけに賛同して書かれた一文を見てみよう。これは激越かつ感動的な檄文である。声に出して読んでみるとよくわかるが、漢語のきりりと引き締まった響きが文章にリズムと迫力を与えていて、『一年有半』を読んだ黒岩涙香に「純然たる理想の人、理想を夢み理想に走るより外に多く顧る所無し」と評された兆民の面目躍如たる名文である。その最後の一段、「哲学を以て政治を打破せよ」と檄を飛ばす箇所を引用する。

団員諸君、諸君の志を伸べんと要せば、政治を措いてこれを哲学に求めよ。けだし哲学を以て、政治を打破するこれなり。道徳を以て、法律を圧倒するこれなり。良心の褒賞を以て、世俗の爵位勲章を払拭するこれなり。紫を曳き朱を紆ふて層楼の上に翺翔する、縉紳と号する、貴顕と号する、生きたる藁人形等は、宜くこれを千里の外に距ぐべし、ただ独り無爵無位の真人これに任ずるに足るのみ、団員請ふ加餐せよ。

Chers compagnons, si vous avez besoin de renforcer vos convictions, ce n’est pas dans la politique, mais dans la philosophie qu’il vous faudra chercher. Armez-vous de la philosophie pour abattre la politique. Servez-vous de la morale pour piétiner les règlements. Privilégiez l’honnêteté pour balayer l’aristocratie. Ceux qui s’entourent de mauve et de pourpre pour voler au-dessus des tours, qui se font appeler élites, tous ces épouvantails vivants, il faut les tenir éloignés à plus de mille lieues. Les seuls à qui l’on peut faire confiance sont les honnêtes hommes, les sans-grade. Compagnons, prenez soin de vous !

 逐語的に「忠実に」訳すことよりも、敢えて原文の表現を単純化し、原文のリズムを仏文において再現することに努めているのがわかる。漢語を多用する原文の香気が失せてしまっているのは致し方なく、それは訳者の咎ではない。
 思想における西欧由来の新しい理想を表現するのに漢学の豊かな素養を前提とした古典的な格調高い文語調をもってするという姿勢をその死の年まで堅持してきた兆民は、死の三ヶ月前に執筆された最後の著作『続一年有半』ではじめて口語調を採用する。
 兆民が亡くなったのは、二十世紀最初の年一九〇一年の十二月十三日のことである。『続一年有半』の文体の文語調から口語調への転換は、日本語による思想表現のための新しい文体の創出の必要が発生したことを如実に示している。以後今日までそのために無数の努力が重ねられ、今もされつつあるとすれば、表現史の観点からすると、日本語による「現代思想」の歴史的起点は、兆民の没年二十世紀最初の年にあると言えるだろう。























































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