内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「石は生きて居る」― 尾崎放哉「入庵雑記」より

2020-05-25 23:59:59 | 読游摘録

 尾崎放哉が大正十五年四月七日に亡くなるまでの最後の八ヶ月ほどを過ごした小豆島の南郷庵に入庵したのは大正十四年八月二十日のことである。翌年に俳誌『層雲』の一月号から五月号にかけて五回連載される「入庵雑記」が起稿されたのは九月に入ってからのことと推測される。擱筆は十一月五日。ちくま文庫版『尾崎放哉全句集』(二〇〇八年)に全文収録されている。四十頁足らずの随筆だが、「放哉の真骨頂を示す名文としてよく知られている」(同文庫版の村上護による解説「放哉の境涯と俳句」より。『青空文庫』で全文が読める。リンクはこちら)。
 この随筆の中に「石」と題された一篇がある。そこに放哉は「石は生きて居る」と記している。その一節に示された放哉の石に対する鋭敏な感応力は、世界の見方を学び直すことへと私を促す。少し長いがその一節を引用しておきたい。

私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ、なんて可愛いゝ者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの、風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至つてはどうでせう。雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (石黒)
2020-05-26 18:47:22
いつも先生の文を味わい噛みしめることで勉強をさせていただいております。

引用文を拝読するうちに、ふと八木重吉の「草にすわる」という詩を思い出しました。

「わかる」ということがどういうことなのかを考えるときに、この詩のことを思い起こすことがあるですが、文中に登場する「草」の重みが、今回の引用文によって照らしだされたような思いがしました。

以下、青空文庫より引用します。

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草に すわる

わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
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