内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(五)― 死に対し、この身を守る術なく、ただなよなよと恐れ慄く

2015-03-22 17:55:55 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第四章は、 « Le temps, la mort » と題され、時間と死という、人間存在にとってそれぞれに大きな問題であるばかりでなく、相互に密接に結びついた二つの主題がそこで取り上げられている。ここでも、ダスチュール先生の思索の導きの糸となっているのはハイデガーである。
 先生が最初に出版された単行本は、一九九〇年にPUFから « Philosophies » という、日本で言えば新書サイズに該当するシリーズの一冊として刊行された Heidegger et la question du temps(ハイデガーと時間の問題)で、この本の第三版(一九九九年)は、今でもフランスにおけるハイデガー研究の基礎文献の一つとしてよく読まれている。この本の基になっているのは、先生の大学でのそれまでの講義ノートであり、ハイデガーにおける時間の問題を核とした時間論は、ダスチュール先生にとって、若き日からの主要問題の一つである。
 一方、死の問題に関しては、先生は、フランスの現役の哲学者の中で、哲学の問題として正面から死を論じ、著作を出版しているおそらく唯一人の哲学者である。特に、その初版が一九九四年に Hatier から、二〇〇七年に増補版がPUFから出版された La mort. Essais sur la finitude は、ジャンケレヴィッチの『死』(一九六六年)以後、死を哲学的主題として取り扱ったもっとも重要な文献の一つである。
 先生の時間論の主要テーゼを簡略にまとめるならば、次のようになるだろう。存在が己の姿を現存在の「明るみ」において現しゆくことそのことが時間である。移りゆく時の彼方に真理の住処として永遠性を措定する形而上学も、万有を移りゆきの中に溶解して自同的存在を生成の内に雲散霧消させる相対主義も、存在と時間を対立させている点では同じである。しかし、両者はそのように対立させるべき互いに排他的な二項ではない。現存在の「明るみ」への存在の到来こそが時間なのである。存在と時間との関係は、時間とは本来独立の存在が時間の中にその一部を顕在化させるということではなく、端的に言えば、存在とは時間なのである。
 このような時間論を前提として、死の存在論が展開される。ハイデガーが現存在の本質を « Sein zum Tode »(死への存在)と規定するとき、それは、生に不可避的にある日到来する死という結末に向かって人間は生きている、と言いたいのではなく、「死ぬ」とは、「不可避的な死に向かって生きる」過程だということである。この過程においてのみ、「在ることができる」ということがそれとして経験されるのであり、この可能的存在には終りがあることの絶対的確実性が、この有限な生におけるもっとも堅固な確実性の経験を私たちに与える。
 カベスタン氏は、そのような死すべき存在としての人間の死に対する真正な態度とは、どのような態度か、と問う。そして、三つの可能な態度を例として挙げる。それは、「死を克服する」(surmonter la mort)「死を無力化する」(neutraliser la mort)「死を引き受ける」(assumer la mort)である。
 この問に対して、ダスチュール先生は、例として挙げられた三つの態度の違いを明らかにしつつ、丁寧に答えていく。
 第一の「死を克服する」という態度は、それが神話的、宗教的あるいは哲学的な問題として問われるときは、魂の不死あるいはその永遠性への帰一という形を取るが、今日では、科学の進歩を根拠に、老化を遅らせ、死をできるだけ遠ざけ、さらには臓器移植や人工的な生命装置よる無際限の延命措置という形を取ることが多い。
 第二の「死を無力化する」という態度は、日々の気晴らしによって死から目を背け、死は自分以外の他者にのみ起る〈人〉の出来事で、この私の出来事ではないとして、死という問題そのものを「解消」してしまうという形を取るか、自分一個の有限の生を超えて様々な形で後世に残しう得るもの(遺伝子がその際たるものだが)によって死を相対化する「策謀」という形を取る。
 第三の「死を引き受ける」という態度は、ある種の哲学や宗教が教えるように、来るべき死に備えるということだろうか。そうではないと先生は考える。なぜなら、そのような場合、死への備えは、結局のところ、永遠なる生への準備段階でしかなく、第一の態度に帰着してしまうからだ。
 第一の態度も第二の態度も、死を、できることなら避けたいが避けられない「悪」、あるいは「敵」と見なしている。だからこそ、一方では、なんとかしてそれを遠ざけよう、避けようとし、他方では、それに恐れずに敢然と立ち向かおうという「英雄的」態度が出てくる。
 しかし、死には、もう一つ「別の顔」、「もっと好ましい顔」あるのではないか。その「顔」に近づくことは、死が引き起こす恐れ慄きを「黙らせる」ことではなく、無防備なままにその恐れ慄きに「身を委ねる」ことを受け入れることである。そのとき、私たちは、死の不可避性や生の有限性は、私たちの実存の「障害」ではなく、むしろそれら実存の限界こそが私たちの実存を可能にしていることを理解するに至るのではないか。ハイデガーの、死すべき存在である人間は、死が「可能な」存在である、という言明が意味するのは、このようなことだと思うと先生は言う。

Accéder à ce que j’ai déjà nommé cet autre visage de la mort, un visage plus aimable, ne peut signifier faire taire l’angoisse qu’elle génère, mais plutôt accepter de s’y livrer sans défense. On parviendrait alors peut-être à comprendre que la mortalité et la finitude ne sont pas des obstacles et que ces limites de l’existence sont au contraire ce qui la rend possible. C’est, je crois, ce que Heidegger voulait dire en affirmant que ces mortels que sont les hommes sont ceux qui sont « capables » de la mort (p. 85).


 私はこの箇所を読んで、本居宣長の「もののあはれ」論を思い出した。例えば、『石上私淑語』の次の一節など。

すべて世の中にありとある事にふれて、その趣き・心ばへをわきまへ知りて、うれしかるべきことはうれしく、をかしかるべきことはをかしく、悲しかるべきことは悲しく、恋しかるべきことは恋しく、それぞれに情(こころ)が感(うご)くが、物のあはれを知るなり。

 恐ろしき死に対し、無力なこの身を守る術なく、ただなよなよと恐れ慄くことを、気晴らしや忙しさにかまけることで避けるのでもなく、「雄々しく」克服するのでもなく、情けないことと恥ずかしがるのでもなく、ただそのように「情が感く」にまかせるとき、世界はこの上なく切なく美しものとして私たちに贈与されていることに私たちは気づくのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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