内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

対話的思考の暗喩としてのテニス

2015-06-24 12:03:10 | 読游摘録

 Heinz Wismann, Penser entre les langues, Flammarion, coll. « Champs essai », 2014 (l’édition originale parue dans la collection « Bibliothèque Albin Michel Idées », 2012) の前書きに相当する文章(« Envoi » )の中に、著者ヴィスマン(1935-)自身が好む思考のタイプについて、それをテニスに準えて、面白いことが書いてある。

Alors que les sports d’équipe, nés dans le sillage de la modernité industrieuse, mettant en scène l’effort collectif tendu vers le but à atteindre, et que les sports de glisse, résolument postmodernes, exaltant l’adresse individuelle affranchie de toute finalité commune, le tennis instaure une sorte de dialogue, métaphore à la fois physique et morale de l’intersubjectivité réflexive. En effet, chaque coup de raquette évoque une question qui appelle sa réponse, et à mesure que l’échange se poursuit, la série des répliques croisées forme comme un inventaire des solutions possibles du problème posé au départ. Essentiellement heuristique, la partie s’apparente ainsi à la recherche, sans cesse recommencée, du meilleur argument (H. Wismann, op. cit., p. 11).

 近代産業の「落とし子」(とはヴィスマンは言っていませんが)のような団体スポーツは、達成すべき目標のための集団的努力をいわば「舞台化」したものであり、スキー、ボブスレー、サーフィンのような滑走するスポーツは、まさにポスト・モダン的であり、集団的に目指されるあらゆる共通目的から解放された個人的技量を賞揚する。それに対して、テニスは、一種の対話であり、反省的相互主観性の心身両面における隠喩になっている、とヴィスマンは言うのである。
 サーヴィスに始まる一連の打ち合いにおけるそれぞれのショットは、一つの問いかけであり、それに対する答えを相手に求める。その答えがまた相手に対する問いかけになり、それが繰り返される。一つのラリーは、サーヴィスによって立てられた最初の問いに対する一連の解決法だということになる。一つの試合は、この意味で、何度も繰り返される、最善の解決法の探究・発見の試みだと言うことができる。
 この暗喩は面白い。が、少し揚げ足を取ってみたくもなる。テニスには勝ち負けがあるではないか。勝った方がより良い解決法を実行できたのだとすれば、それが「正しい」答えということになるのだろうか。
 もちろん、ヴィスマンが言いたいことはそこにはない。解決探究の過程そのものであるラリーこそが思考の醍醐味だと言いたいのだ。プレーヤーにとって、勝ったから「いい試合」なのではない。対戦する二人がそれぞれに最善の答えを求めて工夫を重ね、相手の意表を突き、お互いにベストを尽くすことができたとき、それが「いい試合」になるのだ。それとちょうど同じように、議論に勝てばいいのでもなく、勝ったからといって「正しい」のでもない。お互いに解決を求めて最も思考力を発揮できたとき、それが「いい議論」になるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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