内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記(21)― 戦後日本の思想史・精神史・文学史を考えるための必読文献(その二)

2019-08-23 09:11:26 | 読游摘録

 今回フランスに持ち帰る加藤典洋氏の著作の残りの四冊は以下の通り。
 『完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』(講談社文芸文庫、2019年、初版2007年)。太宰や三島に仮託して自分の考えを表明してきたそれまでの思想的場所から立ち位置を変え、彼らとははっきり違う足場に立って本書は書かれているという(「単行本あとがき」203頁)。「その足場を一言で言うと、生きている人間の場所、ということになろう。あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰治や、三島由紀夫にあんまり共感するのは、変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる。それはそうだろう。彼らは思いつめて死んでしまった。それなのに筆者は、のうのうと生きている。そこに、自分にとって一つの問題があるらしいと気づいてから、この太宰治論の仕事に、身が入るようになった。」(同頁)
 『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)。本書については、今月20日の記事ですでに取り上げているので、そのとき引用したのとは別の箇所を引用しておく。

 この本を書くなかで、私の環境にも変化があった。それは、息子の加藤良が昨年二〇一三年の一月一四日、不慮の事故で死んだことである。享年三五歳。このことで、私は突然、この世に自分がひとり、取り残されたと感じた。
 彼は私に人が死ぬということがどういうことであるかを教えてくれた。(417頁)

 『戦後入門』(ちくま新書、2015年)。著者はこの本を高校生くらいの若い人や大学生にも読んでほしいという。「過去との結びつきを感じたいというのは人間の健全な渇望である。これまで、それをことさら切断することに力点をおきすぎてきたかもしれない、と感じた。戦前と戦後は断絶している。しかし、それですむなら、世話はない。そのことを残念に思うこころが、「ねじれ」を作る。私たちは、その「ねじれ」をうまく生きる技法、作法を身につけるべきだ、と考えるようになった。」「戦後の国際秩序にフィットした・そして持続可能(サステイナブル)な・「ねじれ」をうまく生き抜く・「誇りある国づくり」こそが、大切だ。この本にはそのことを書いたつもりである。」(631-632頁)
 『9条入門』(創元社、2019年)。著者の最後の著作である。著者は、丸山眞男の「復初の説」(1960年)を引きながら、「初めにかえれ」という。この「初め」とは、1945年8月15日のことである。この日には、まだ、何もなかった。平和主義も憲法9条も。「初めにかえる」とは次のようなことである。

 私は、もし、この日に、私たちが、空を見上げ、この後いったい自分たちはどうすべきか、何が一番、自分たちにとって、大切なのか、どうすることが、いま自分たちにほんとうに必要なのか、と考えたなら、その答えは、さまざまなものとなったと思います。けれどもそこでさまざまな問いと、その答えを受けとりつつ、私たちの多くが、またいつか、危機に際して、何度も、自分たちは、そのつど、ゼロの地点から、この問いをくり返すだろう、と思っただろうと思うのです。(326頁)

 しかし、一番大切だったはずのその原初の問いは、戦後七十四年間、結局正面から問われることのないまま、事ここにいたっていると著者は言う。本書は、著者が「読者のみなさんと共に八月十五日の「廃墟」という、“何もなかった場所”にまで立ちかえり、「新しい日本の建設」について考えようとした試み」である。
 私もまた、読者の一人として、著者と共に、「何もなかった場所」にまで立ちかえり、何が新たに構築されるべきなのか、考えていきたい。












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1 コメント

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what war is (funkytrain)
2019-08-23 22:13:38
こんにちは。

ふだんややおちゃらけた投稿ばかりで失礼しておりますが、戦後を考えるという重いテーマに、柄にもなく一筆したくなりました。

戦後ということを考えるには、やはり「戦争」そのものを無視できないのではないでしょうか。8月15日も重要ですが、それ以上に戦争そのものも重要かなと。とはいえ、戦争そのものを経験していない以上は、なにがしかの文献に頼らざるをえない。

たとえば大岡昇平の『レイテ戦記』は、われわれのような戦後生まれにとっては極めて貴重な戦争の記録だと思われます。小説家であるはずの大岡昇平が、小説としての体裁、おもしろみなどすべて捨て去って、入手しうる限りの資料を用いて書きあげた、おそろしく読みづらい、しかし圧倒的な事実の集積。

ひとつの戦闘で敵味方ふくめ何名の人間が死んだのか、その死にざまはどのようなものだったのか、司令部は何をしていたのか、そうしたことがひたすら列挙されるがゆえの重み。

耳慣れない比島の地名が列挙され、その耳慣れぬ地で亡くなっていた無数の兵士たち。現地のゲリラたち。米国人たち。

その重みを知ることなく戦後を考えようとしても、どうしようもないのではないかとの思いがつのります。こういう情報をきちんと読まない人間だけが簡単に「戦争するしかないんじゃないっすか?」というような考えなしの発言ができるのかな、と。

『レイテ戦記』なる「やりきれない」書物を一人の人間に書かせてしまうだけのものが、戦争にはあるのでしょう。それを追体験はできないまでも、想像をめぐらせることは後に生まれたわれわれの義務であるような気がしてなりません。
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