内的自己対話-川の畔のささめごと

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石の謎、死体の局部研究、民俗学者としての渋沢敬三の開花

2021-07-27 14:58:16 | 読游摘録

 二日連続で二時間走った。といっても、速歩のほうが速いのではないかというスローペースで18,5キロ。今日はナイキのペガサス38で走った。シューズによって走り方を少し変えたほういいこともわかった。それはより速く走るためではなく、より疲れにくい走り方、膝、前脛骨筋、アキレス腱などにより負担がかかりにくい走り方をするためである。今日はまったくどこにも痛みが出ることもなく完走できた。ほんの少しずつペースを上げて、どこにも痛みがでないように気をつけつつ、二時間で20キロあたりを目標にしようと思う。
 五来重『石の宗教』(講談社学術文庫 2007年 初版単行本 1988年)をところどころ読む。石は不思議だ。五来は「謎だらけ」だという。

これは自然界の謎を石が背負っているように、人間の心の謎を石が背負っているからだろうとおもう。そして人間の心の謎は宗教の謎である。したがって宗教の謎が解ければ、石の謎も解けるにちがいない。その宗教というものも、人間の頭でつくった文化宗教では石の謎は解けない。仏教の唯識の三論の、天台の真言のといっては、石仏の謎一つも解けないだろう。キリスト教の神学でも、儒教の哲学でも石には歯が立たない。それは自然宗教としての原始仏教、未開宗教、あるいは庶民信仰や呪術宗教の分野だからである。

「謎の石―序にかえて」より

 植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』(角川選書 2014年)、半分ほど読み終える。この稀代の碩学がどれほど偏狭なアカデミズムやセクショナリズムを嫌い、それと戦い続けていたかがよくわかり、とても興味深い。心に触れるエピソードも多い。同書には『比較思想の軌跡』(東京書籍 1993年)から数カ所引用されているが、その一つを孫引きする。

日本の哲学的諸学問の大きな欠陥は、人間の生きること、人間の思考・感情の諸様相の生きた体系を、そのものとしてとらえようとせず、細分化してしまって、人間そのものを見失っていることである。いわば生体解剖をした死体の局部局部を研究しているようなものである。

 こう中村元が述べたのは比較思想学会第五回大会(おそらく1978年)でのことだが、それから四十年以上経った現在も、解剖された死体の局部研究のような論文を書かなければ、ガクジュツ的論文とみなされず、したがって研究者として認められないという状況は、さほど変わってはいないのではないだろうか。
 佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫 2009年)第四章「廃嫡訴訟」を読む。渋沢栄一の嫡子篤二の廃嫡が東京地裁により正式に決定されたのは、大正二年一月十五日のことであった。それは、敬三が十六歳のとき、東京高等師範学校附属中学の卒業を間近に控えていた。大正四年八月、渋沢同族会は株式会社に改められ、十九歳の敬三が初代社長に就任する。栄一の「放蕩息子」篤二の代わりに渋沢宗家当主となることがこれで決定的となる。祖父栄一が九十一歳で大往生を遂げたのが昭和六年十一月。翌昭和七年一月、篤二の若き日の養育係であり、敬三に対してもなにくれとなく世話をやいた穂積歌子も六十八歳で他界。同年十月、父篤二、白金の妾宅で死去。

偉大なる祖父と、その重圧にうちひしがれたまま蕩児として生涯を終えた父、そして渋沢一族の繁栄をひたすら願った謹厳実直な伯母の相次ぐ死は、敬三を悲嘆のどん底にたたきこんだ。だが、渋沢家の一つの時代の終わりを告げる三人の死は、一面、敬三にとって一種の解放でもあった。

敬三が本格的に民俗学者として開花するのは、祖父栄一の死後である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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