内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私撰万葉秀歌(12) 「あが立ち嘆く息と知りませ」― 遠隔情意現前

2014-11-26 21:20:50 | 詩歌逍遥

 学部時代から講義や演習の際の必携書としていつも持ち歩いていた塙書房版『萬葉集 本文篇』が今も手元にあり、講義の準備の時などに万葉仮名本文を確認する必要あるときには必ず参照する。表紙はもう相当に傷んでいるが、私にとって最も大切な書物の一つであり、書斎の机に向かって右手の書棚の座ったままで手の届くところに、まさに座右の書として、並べられている。これからもずっとそうだろう。本文にはいたるところに書き込みがあり、今それを読み返すと、当時受けていた授業のことが懐かしく思い出されるとともに、今こうして奇しくも当時の勉学の現場に立ち戻っている縁の不思議を想う。
 明日の古代文学史の講義では、これまですでに四回の講義を充ててきた『萬葉集』の紹介の締めくくりとして東歌と防人歌について話す。そこで巻十四を一通り読み直していて最終ページに来たら、見開きの左側の頁は巻十五の最初の頁で、そこには頁一杯にいろいろと鉛筆で書き込みがしてある。遣新羅使節たちの別れを惜しんでの贈答歌群百四十五首の歌群としての構造分析を講義で習ったときに書き込んだものであろう。
 最初の十一首は、遠く旅立つ夫とそれを見送る妻との贈答歌群である。そこに表現されているのは、当時の旅の困難から来る不安や家族を残していくことへ気がかりという時代の特殊条件を超えた普遍的な感情の動きであり、読む者の胸を打たずにはおかない。
 別離の悲しみを「君を離れて恋に死ぬべし」と歌う妻の一首から始まり、以下交互に歌い交わす形になっているが、歌群三首目である妻の二首目は特に名歌として知られる。

君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ

 現代語訳を掲げるまでもないほど平明にかつ心深く歌い出された一首である。嘆きが霧や雨になると万葉人たちは信じていた。しかし、私たちがこの歌を読んで感動できるとすれば、それは当時の俗信あるいは迷信だと言って片付けることはできないであろう。
 遠く旅立った夫を想い、妻はたびたび門口に立って安否を気遣うことであろう。夫はこれから新羅に向う船を待つ海辺で、立ち上る霧を見て妻のことを想うであろう。それは想像ではない。遠く離れた二人の心が霧立つ空として広がり、結ばれている。霧をきっかけとして、そこにはいない妻を想うのではなく、霧が妻の心の現前に他ならない。そういう世界に二人は生きている。











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