内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「精神は気絶するまで自らを壁にぶつけるであろう」― シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」より

2024-08-31 04:52:34 | 読游摘録

 光溢れる葉月も今日で終わりですね。日本は巨大な台風10号に襲われ、こんな能天気な感懐に浸っているどころではないのかもしれませんが。
 ワタクシ的時間としては、今月はけっこう長かった。そう思えるのは、良きにつけ悪しきにつけ、内面的にはいろいろあったからなのかなぁ。
 でも、傍目からは、かくも何もない単調な日々の繰り返しを将来に対するいかなる希望もなくよくもまあ発狂もせずに生きていられますねと感心されかねないほど何もない毎日だったのですが(問題「適当なところに読点を打て」)。いや、そうでもないか。でも、それについては口をつぐみます、墓場まで。
 独りよがりで偏屈な私だけの歪んだ印象なのかも知れませんが、自分独りの狭隘で非寛容な偏見を「正義」と称して振りかざし、他者を裁く人たちがいたるところで増えているような気がします。その数たるや、いきなり戦意喪失するほどです。
 あっ、これ、偽善です。だって、私、そもそも戦う気がありませんから。駄目なんですよね、子どもときから。そういう「正義のミカタ」的な人と対面すると、すごすごと引いてしまうのです。口ごもってしまい、うつむいて、相手の顔も見ずに、「スミマセン」とぼそっと呟くのが関の山です。それでもおまえテツガクシャかって? 確かになんとも情けない話です。
 さて、新学年開始を来週に控えた今週に入って、仕事関係のメールが来るわ来るわ、それへの対応だけで鬱状態になりそうで、返信の合間に仕事とは無関係な読書に救いを求めたところが、「返り討ち」(これ、ちょっと違うか)にあって、結局さらに打ちのめされるという……。なんなの、これ?

 ここまでしょうもない拙駄文を読んでくださった皆さまの海よりも広く深いお心への深甚なる感謝の気持ちを込めて、シモーヌ・ヴェイユの以下の文章を共有させていただきます。皆様、今日もどうか佳き一日を。

 Un esprit qui sent sa captivité voudrait se la dissimuler. Mais s'il a horreur du mensonge il ne le fera pas. Il lui faudra alors beaucoup souffrir. Il se cognera contre la muraille jusqu'à l'évanouissement ; s'éveillera, regardera la muraille avec crainte, puis un jour recommencera et s'évanouira de nouveau ; et ainsi de suite, sans fin, sans aucune espérance. Un jour il s'éveillera de l'autre côté du mur.
                                 La personne et le sacré, Rivage Poche, 2017, p. 68.

 自らが囚われていると感じている精神は、囚われていることをありのままに認めようとはしないであろう。だが精神が虚偽を激しく嫌悪するならば、囚われていることをありのままに認めるであろう。そのとき精神は、ひどく苦しまざるをえないであろう。精神は気絶するまで自らを壁にぶつけるであろう。そうして目覚め、恐れをもって壁をじっと見つめるであろう。続いてある日、また壁に自らをぶつけ、また気絶するといったように、際限なく、いかなる希望もなく、繰り返すであろう。こうしてある日、精神は、壁の向こう側で目覚めるであろう。(今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、2018年、358頁)