内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『失われた時はもう探さないで』第一篇「ジャニコーのほうへ」(1)― スピリチュアリスムとナショナルなものの関係について

2023-01-21 21:20:28 | 雑感

 今日昼前、修理が済んだ自転車を、ジョギングを兼ねて3キロほど走って取りに行った(歩いていってもよかったのですが、習慣とは恐ろしいものです、自ずと走りたくなるのです)。
 ブレーキ系統の修理が済み、ついでに頼んでおいた変速機の微調整も完璧で、新品みたいに快適に走れるようになった自転車に乗ったら、なんかやたらと嬉しくなってしまった。で、ついでに買い物をして帰ろうと、よく行くスーパーまで超前傾姿勢でガンガン飛ばした(自転車専用道路を疾駆している爺を想像されたし ― バカなの? ― ハイ!)。
 ところが、世の中はうまくいかないものである。駐輪場で施錠してから気がついた。出掛けに、どうせ自転車屋に自転車を取りに行くだけだからとチェーン錠の鍵を家に置いてきたことを。つまり、一旦自宅に鍵を取りに戻らないと、買い物さえできないではないか、と。
 いや、正確には、できないわけではないが、買い物するにしても、自転車に乗って帰れず、荷物を背負うサックもないわけであるから、手で持って帰れる量だけ買って両手に抱えて自宅に戻り、荷物を置いた後、ただ自転車を取りに行くためだけにスーパーに戻ることになる。これはいかにも業腹である。
 そこで熟慮の末(それほどのことか)、自転車を駐輪場に置いて、自宅までの片道2,5キロを走って鍵を取りに帰った(えっ、また走ったの? ― オフコース!)。無事(に決まっているが)自宅に戻り鍵をリュックサックに入れて、またスーパーまで戻るとなった段、スマートウォッチによると、すでにその日のジョギングの距離が5キロを超えていた。そこでまた思案した(なんか、無意味に大げさ)。日課の10キロに到達するように、スーパーまでの戻り道をあえて遠回りして距離を稼ぐことにした。これは実に妙案である(好きにすれば)。
 かくしてスーパーに着いたときにはほぼ10キロに達していた。一石二鳥というわけである(何かおかしくありませんか、使い方が)。
 さて、自転車もすっかり直って気分をよくし、採点作業も順調に進み、明日には確実に終えられる見通しがたったので、今日からドミニック・ジャニコーの著作のほうへ、特に Ravaisson et la métaphysique のほうへとそろそろの摺足で(何で? ― 初場所中じゃん ― 意味不明)向かっていきたいと思う。
 先週早速そうしようと思っていたのだが、できなかった。それは採点作業や授業の準備で思うように時間が取れなかったということもあるのだが、それらは、はっきり言おう、世俗的な些末な理由である。主たる理由、つまりスピリチュアルな理由は Ravaisson et la métaphysique そのものにあった。
 というのは、Introduction の 1ページ目の « Il est certain que, réagissant à la fois contre l’empirisme anglo-saxon et l’idéalisme allemand, ce spiritualisme s’est, en partie, fermé aux apports extérieurs et, en quelque sorte, retranché sur les valeurs nationales. » という一文のところではたと考え込み、先に進めなくなってしまったのである。なぜか。この文の最後の一語 « nationales » という言葉に引っ掛かってしまった。
 どういうことかと言うと、スピリチュアリスムなどおよそ政治の世界とは縁遠いように思われるけれども、このナショナルなものに深く関わっているとすると、むしろきわめて政治的な要素をその裡に含んでいることになると愚考してしまった、ということである。
 で、それが? ソノコタエハアシタ。