内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

一本の見えない線が繋ぐもの ― ラヴェッソンのデッサン論をめぐって

2023-01-06 14:13:33 | 哲学

 昨日の記事で言及した『教育学事典』の項目「デッサン」ためにラヴェッソンが執筆を担当した部分は671-684頁に渡り、それ自体がラヴェッソンのデッサン論としてきわめて興味深い。昨日引用したダ・ヴィンチの『絵画論』からの引用がある段落の次の段落でラヴェッソンはこう述べている。

Quoi qu’il en soit, cette ligne souveraine qui commande les autres lignes, et qui pourtant ne se révèle aux yeux que par celles-ci, cette ligne qui se laisse deviner plutôt qu’elle ne se montre, et qui n’existe pas tant pour la vue que pour l’imagination et la pensée, un artiste éminent de notre époque l’appelait, en parlant à son élève (l’auteur du présent article), la “ligne métaphysique” ou supra-physique ; c’était achever par un terme expressif la théorie de Léonard de Vinci, de Michel-Ange et des Grecs.

Dictionnaire de pédagogie et d’instruction primaire, op. cit., p. 680.

なにはともあれ、この至高の線が他の諸線を命じているのであるが、しかしこの線が肉眼に明らかされるのはその他の諸線によってのみであり、この線はそれ自体が姿を現すというよりも推察されるのであり、肉眼に対して存在するというよりも想像力や思考に対して存在する。この線を、私たちの時代の卓越した芸術家の一人は、その生徒の一人(本項目の執筆者)に向かって話しているとき、「形而上学的な線」あるいは超物理的な線と呼んだ。それは、この豊かな表現力をもった言葉によって、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてギリシア人たちの理論を完成させるものであった。(私訳)

 ポショテック版ベルクソン全集の校注者は、この箇所を注に引用しつつ、ラヴェッソンが好んで引用したというダ・ヴィンチの『絵画論』の一節を引用した直後にベルクソンが述べていることはこの箇所についてのコメントであろうと推定している。その通りであろう。

Cette ligne peut d’ailleurs n’être aucune des lignes visibles de la figure. Elle n’est pas plus ici que là, mais elle donne la clef de tout. Elle est moins perçue par l’œil que pensée par l’esprit. (PUF, 2009, p. 264-265)

そうした線はじつは物の姿のどこにも見えない線かもしれない。ここにもなくあそこにもないのだが、しかしそれが全体の鍵となっているのだ。そうした線は眼で知覚されるというより、精神によって思考されるのである。(原章二訳、平凡社ライブラリー、2013年)

 ベルクソンが同論文で述べているように、ラヴェッソンは才能ある芸術家を母としてもち、少年時から芸術一般、とりわけ絵画に素質を見せていた。母は息子を当時の新古典主義の巨匠ダヴィッドの二人の弟子の手に委ねた。ラヴェッソンはデッサンを特によくし、その作品は「この上もなく優美な de grâce exquise」ものであったという。
 つまり、ラヴェッソンのデッサン論は画家としても優れた才能をもっていた哲学者による経験に裏打ちされた芸術論であり、実践経験のない哲学者たちの思弁的な美学とは一線を画すものであった。メルロ=ポンティが『眼と精神』で画家たちの言葉とともにラヴェッソンのデッサン論に言及しているのも、そこに優れた芸術的直観を読み取ったからであると思われる。
 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラヴェッソン(ベルクソンを介した)、そしてメルロ=ポンティを繋いでいるのは、それ自身はそのまま現れることはないが、眼に見える諸線を生動させ、それら生動する線の多様な運動を通じて己を表現する一本の「うねるよう線」なのである。