内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学革命のための地ならし作業 ― J・L・オースティン『言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか』

2019-07-05 19:14:20 | 読游摘録

 講談社学術文庫として人文科学系の古典的名著の注目すべき新訳が昨年から矢継ぎ早に刊行されているので、そのそれぞれを手に取った(というか、電子書籍を購入した)機会に最初の印象記を残しておこうと思い立ち、一昨日のマックス・ウェーバーの『仕事としての学問 仕事としての政治』からそれを始めた。
 今日は三冊目。今年一月に刊行されたJ・L・オースティンの『言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか』(飯野勝己訳)を取り上げる。原書のタイトルは How to do things with words で、私の手元にはその第二版(Harvard University Press, 1975)があるが、訳者が底本としたのは第一版(1962年)。第二版での若干の誤記修正と変更・加筆については、前者は、あきらかな場合は断りなく取り入れ、後者は、訳中で言及・引用している。本書には、仏訳もあり、そのタイトルは Quand dire, c’est faire(Seuil, 1970)。アングロサクソンの言語哲学・分析哲学の系統に属する著作としては、かなり早く訳されたほうだ。
 本書について一般に共有されている理解の仕方は、訳者によると、「『言語行為論(speech act theory)』を創設した記念碑的著作であり、したがって、テーマはもちろん言語行為の理論を提示することにある。そして、この言語行為の理論こそ、もっぱら破壊的な議論にいそしんできたオースティンが構築へと転じ、未完に終わったものの自身の哲学の到達点としてしるしづけたものである」となる。それはどれも間違いというわけではないが、この訳業を通じて、それとはちょっと異なるイメージが見えてきたと訳者は言う。
 訳者は、本書の章立てにとらわれずに、内容に即した区切りによる独自の章立てを試み、それに沿って、けっして読みやすくはない本書の各章を概観していく。もちろんそこには訳者の見解がにじんでいるわけだが、その結果として見えてきた「新たな相貌」があると訳者は言う。
 それによると、本書は哲学革命の遂行そのものではなく、革命のための地ならしの作業だったのであり、本書でオースティンが実践しているのは、彼のいつもの哲学的営みである「言語的植物採集(linguistic botanizing)」である。「本書のテーマが言語行為にあることは間違いない。しかし、その重心は、言語行為一般の理論ではなく、個々の言語行為がどうなっているのか、そしてそれらは哲学の問題にどういう光をあてるのか、という探究のための準備作業にあった」というのが訳者の見方である。
 この採集作業はしばしば共同作業として実行される。

何か論題が決まったら、まずは辞書を通覧するなどして、関連する語彙や成句をとにかくたくさん「採集」する。次に、それらを具体的な状況における具体的な発話にあてはめて、「どういうときに何を言うべきか(what we should say when)をあれこれ検討する。そして、そのうえで当の哲学的論題にあたるのである。たとえば「自由意志」という伝統的論題に取り組むとしたら、いきなり決定論などと対比させて大ぶりに論じるのではなく、まずは「自由に(freely)」や「自発的に(voluntarily)といった語彙を採集し、それを具体的な状況にあてはめ……とやるわけである。

 この作業だけでは、いくらそれを続けても何ら問題の解決にはならないが、地に足の着いた哲学的議論を共同作業として実行するための準備作業の一つでは確かにありうるだろう。