内的自己対話-川の畔のささめごと

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色彩豊かな客観的実在としてのイマージュ ― ベルクソン『物質と記憶』探検(1)

2019-07-07 23:47:55 | 哲学

 『物質と記憶』第一章での「イマージュ」(image)という語のベルクソン固有の使い方は、1896年の初版刊行直後から多くの批判と誤解の対象となった。それに対して答える形で、本書の第七版(1911年)からそれ以前の序文に替わって新しい序文(もとは1910年刊の英訳版の序文として書かれたものの仏語版)が冒頭に置かれるようになった。
 現行の諸版は、この第七版の序文を巻頭に置き、初版の序文は巻末資料などに送り込んでいる。私の手元には、新旧のPUF « Quadrige » 版(1939年版第七版、2008年校訂版)、同じく PUF から1959年に刊行された生誕百周年著作集、GF Flammarion 版(2012)La pochothèque 版(2015)があるが、このうち初版の序文を冒頭に置いているのは La Pochothèque 版だけである(同版はその直後に第七版序文を置いている)。
 杉山訳は 、PUF « Quadrige » の旧版と生誕百周年著作集を底本としている。これは一つの見識だと思う。というのも、訳者が指摘しているように、2008年校訂版には新たな誤植が生じているからである。この校訂版は、詳細な注解・資料編の豊富さ・最新研究成果についての情報などの点でその他の版の追随を許さず、研究者たちはこの版の恩恵に浴していることは確かだが、唖然とするような誤植も確かにある。
 それはともかく、第七版序文におけるイマージュの説明を読んでみよう。

La matière, pour nous, est un ensemble d’« images ». Et par « image » nous entendons une certaine existence qui est plus que ce que l'idéaliste appelle une représentation, mais moins que ce que le réaliste appelle une chose, — une existence située à mi-chemin entre la « chose » et la « représentation ».

われわれの立場からすれば、物質とは「イマージュ」の総体のことだ。そして、この「イマージュ」の語でわれわれが言わんとしているのは、観念論者が表象と呼ぶものよりは多く、しかし実在論者がものと呼ぶものよりは少ない存在、つまりは「もの」と「表象」の中間に位置する存在なのである。(杉山訳)

Donc, pour le sens commun, l’objet existe en lui-même, et, d’autre part, l’objet est, en lui-même, pittoresque comme nous l’apercevons : c’est image, mais une image qui existe en soi.

このように、常識にとっては、ものはそれ自体で存在しているものであり、しかも他方、われわれが見て取るがままにそれ自体、色彩豊かなものでもある。これはイマージュだが、それ自体で存在しているイマージュなのだ。(同訳)

 ベルクソンが第一章で「イマージュ」と名づけているのは、われわれが日常生活の中で経験している事物のことであり、心に浮かぶ影像ではない。それは「重みをもった実在であり、科学者の問いかけに応じて、次々と予期しない内奥を開示しうるだけの奥行きをそれ自身にそなえた実在のこと」なのである(「訳者解説」)。
 この意味での「イマージュ」をどう訳すかが問題になる。杉山訳は、これまで採用された「像、象」を含んだ訳語を避け、日常言語として使われている「イメージ」という英語も避け、「日本語とフランス語の距離をむしろ利用しよう」という意図から、「イマージュ」というカタカナ表記を採用している。読者は、先入見を排して、この語が使われている文脈そのものからその意味を捉える必要がある。これは仏語原文でも同じことだ。