内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私の身体は、精神というマクロな生成の一部分なのだろうか? ― ベルクソン『物質と記憶』探検(4)

2019-07-10 19:42:37 | 哲学

 「物質も精神も重なりながら生成しつつある」(訳者解説)という前提を認めた上で、もう少し、自分勝手に考えてみる。
 この「重なる」という言い方は曖昧だ。一般的な用法として、何かが何かと重なるというとき、その両者が互いに区別できるそれぞれに独立な存在であることをその前提としている。それは物体間の関係についてばかりでなく、予定が重なる、思い出が今の出来事と重なる、二つのイメージが重なって見えるなどの場合でもそうだ。
 しかし、物質と精神とは、そのような意味で重なっているのではないだろう。
 例えば、テーブルの上に水が入ったコップが一つあり、それを目の前にしている私がいるとしよう。この水もコップも私の身体も、机その他それらを取り巻くすべての物理的環境も、物理的法則に従う物質的所与としてだけ記述することができる。このような所与は、私の身体の行為という次元とはまったく関係がないという意味で、非決定的あるいは中立的である。
 次の瞬間、私がそのコップを手に取って水を飲んだとしよう。この行為の理由は、のどが渇いていたからかも知れないし、なんだか自分でもはっきりしないが、気がついたら飲んでいたということかも知れないし、あるいは、他の人にそう命令されたから、そうしただけなのかも知れない。そのいずれの場合も、私が水を飲んだということは、物理的所与からだけでは説明できない。
 精神は喉が乾わかない。自由意志も同様だ。では、私の身体のそのときの生理的状態が私の脳にコップの水を飲めという命令を発したのだろうか。しかし、そのような問いを発する以前に、もっと単純に、非決定的あるいは中立的であった所与の物理的状態に、あるときある一定の方向に変化が起こったと見てみればどうか。
 その変化の記述は、その変化を引き起こした起動点を中心になされる。それが私の身体だ。精神があるから、私の身体が水を飲むという行為を実行したのではない。そのような行為の発生が、所与の物質と同じ物理的世界に在りながら、それらは異なり、且つそれらと交渉を持つ、あるいは持たなければ生きていけない存在としての私の身体を周囲から区別する。
 しかし、私の身体は、その都度の現在においてのみ物質と作用反作用の関係にあるのではない。

それは精神というマクロな生成の一部分、その先端にすぎない。身体の背後には、ずっと以前から継続している生成の全体が控えている。これが、身体が位置する「現在」との対比で「過去」とされるものだ。注意すべきだが、主観である私の生成にとって、この区分は二次的なものである。あくまで「身体=物質=現在」を自分の先端部とし、しかも身体の周囲に拡がる物質をも自分の知覚として引き受けながら、その上で、より厚みをもったものとして生成しつつある全体が、「私」である。物質は、いつも「現在」にある。だが、精神としての「私」は、それ以上の内容でできている。つまり、それは「私の現在の(物質的な)知覚+それを先端とした生成全体、なのである。円錐の図式が言わんとしているのは、まずはこういうことだ。(訳者解説)

 ここを読んでも、ベルクソンに対してなのか、訳者に対してなのか、はっきりしないが、昨日の記事で呈したのと同じ疑問を懐く。生成しつつある全体としての「私」は、どうして身体を持たなくてはならないのだろうか。精神というマクロな生成は、なぜ身体という先端部を必要とするのか。なぜ物質と交渉を持たなくてはならないのだろう。
 むしろ、見方を逆転させるべきではないのだろうか。つまり、物質と身体との間に差異化が発生するところに一つのマクロな生成としての精神の生誕を見るべきではないのだろうか。言い換えれば、身体の個体化過程が精神の生成過程なのであって、精神の生成過程の一齣として身体が発生するのではない、そう見るべきではないのか。