講談社学術文庫の新訳として取り上げる四冊目は、杉山直樹訳のベルクソン『物質と記憶』(2019年5月刊)である。
古代から現代までの西洋哲学史の主要な著作はすべて日本語に訳されており、その中でも古典中の古典とされる著作は、明治から現代に至るまで、何度も訳されている。しかし、『物質と記憶』ほど何度も訳された著作はそうざらにはないのではないだろうか。最初の訳は大正三年(1914)に刊行された高橋里美訳、最新の杉山訳は八番目の訳ということになる。この百年余りの間に八回も訳された哲学書が他にどれほどあるだろうか。その初版は1896年であり、これほど「最近」に出版された哲学書で八回も訳された哲学書はおそらく他にはないのではないだろうか。
このことは、何を意味するのだろう。本書が第一級の哲学書であることは間違いないが、それだけでは、これだけ何度も訳し直される理由としては不十分だ。過去の訳に何らかの誤りや問題があり、それを訂正するために新訳を試みるということももちろん理由の一つとして挙げることはできるだろう。しかし、『物質と記憶』に関しては、それだけでは説明しきれない、何か固有の理由があるはずだ。
確かに、本書は難しい。フランス語の構文として特に難しいわけではないし、ベルクソンは難解な語彙を振り回すわけでもなく、逆に、杉山氏も訳者解説で述べているように、ベルクソンが使う言葉は、それ自体は見慣れたもの―「記憶」(mémoire / souvenir)「物質」(matière)「イマージュ」(image)が多い。だが、まさにそこが罠なのだ(ベルクソン自身は罠を仕掛けようなどとは思っていないが)。なぜなら、ベルクソンは、それらの語に彼独特の意味を込めて使っており、見かけのとっつきやすさが問題そのものの難解さを覆い隠してしまっていることが多いのだ。
その結果、「まあ、見慣れた言葉遣いだし、そう構えなくてもだいじょうぶと、思って分け入ってみるのだが、気がつくと、あたかも密林の中で遭難するといった目に遭わされるわけだ」(訳者解説)ということになる。訳者自身、少なからぬ遭難経験があったと言う。
このようにとても「危険な」、しかし現代哲学の最先端へと開かれた哲学書の世界に日本語で分け入るための最新の信頼できる翻訳(しかも、とても親切な安全マップとしての解説付き)が本書である。
明日から何回か、例によって計画性なしに、訳者のガイドにしたがって、私たちに見慣れた日常世界を根本から見直すことを今も迫ってやまない『物質と記憶』を読み直していこう。