昨日の記事で予告したように、カイロスとクロノスとの区別と関係について考察するにあたって、小林敏明氏の『西田哲学を開く 〈永遠の今〉をめぐって』第6章「現在」を導きの糸としよう。
その章でこの問題をめぐってまず参照されているのがジョルジュ・アガンベンの『残りの時』(Il tempo che resta. Un commento alla Lettra ai Romani, 2000)である。私の手元にあるのはその仏訳 Le temps qui reste. Un commentaire de l’Épitre aux Romains (Rivages poche, 2004 ; première édition 2000) である。本書は、アガンベンが1998年から1999年にかけて各所で行ったロマ書詳解セミナーが基になっており、章立ても「第一日」から「第六日」と演習の雰囲気を残すような仕方で編集されている。
その「第四日」に「カイロスとクロノス」という節がある。小林氏も主にこの節を参照しているのだが、その参照されている箇所を直接見る前に、そもそもアガンベンが本節でカイロスとクロノスをどう定義しようとしているか、アガンベンの論述に即して見ておこう。
アガンベンは、カイロスとクロノスとが互いに質的に異なるという一般的規定を承認した上で、しかし、ここでの関心は、両者の対立よりもむしろその関係にあるという。そこで、「カイロスをもつとき、私たちは何をもっていることになるのか」と問う。そして、カイロスについて自分が知る最も美しい定義として、ヒポクラテスのそれを引用する。
その引用箇所は、仏訳からできるだけ忠実に訳せば、「クロノスはその中にカイロスがあるところのものであるが、カイロスはその中にほとんどクロノスがないところものである」となる。ただ、アガンベンは引用文献を示しておらず、私の手元にあるヒポクラテス医学論集の二つの仏訳の中で引用箇所を特定することはできなかったので、この訳が適切かどうか自信がない。
差し当たりの理解として、クロノスという時間の流れの中にカイロスという機会は複数含まれているが、それぞれのカイロスは瞬間のようなもので、クロノスの中で長く持続することはない、としておこう。
ここでアガンベンのテクストから一旦離れ、ヒポクラテスにおけるクロノスの意味をもう少ししっかりと捉えておこう。そのために、明日の記事からニ回に渡って、ヒポクラテス文書の中でクロノスあるいはその派生形が出てくる他の箇所を見ていくことにする。