内的自己対話-川の畔のささめごと

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古代日本文化の第一線の担い手としての渡来人たち ― 上田正昭『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』(角川選書)を読みながら

2017-10-16 22:55:54 | 読游摘録

 昨年三月に亡くなられた日本古代史研究の第一人者上田正昭氏は、1965年に中公新書の一冊として出版された『帰化人』の中で、古代日本史において「帰化」・「帰化人」という概念を使用することへの疑義を呈し、それにかわって「渡来」・「渡来人」という語の使用を提唱した。同書の出版以降、ほとんどの歴史教科書が「渡来」・「渡来人」という語に切り替えていった。
 上田氏の「帰化」概念批判は、「帰化」すべき統一国家が存在せず、「帰化」のあかしになる戸籍が存在しない時代に、「帰化人」とよぶべき人間のいるはずがないこと、「帰化」はそもそも「内帰欽化」という中華思想の産物であって、帝国周囲の夷狄が中国皇帝の徳化によって「帰属し、欽び化す」ことを意味していたこと、「帰化」という用語は『日本書紀』には頻用されているが、『古事記』『風土記』にはまったく使われていないことなどを論拠としていた。
 この点に関して、昨年の発売以来非常によく売れているらしい『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社)に一言苦言を呈しておきたい。
 本文中には、同書でも「渡来人」という語が十数ヶ所使われているが、索引にはこの語がなく、「帰化人」という語のみ掲載され、示されている二頁(55、56頁)を見ると、そこに見られるのは「渡来人」についての記述であり、「帰化人」という言葉は出て来ない。ただ、百済・高句麗の「遺民が多数帰化してきた」という記述は見られる(55頁)。しかし、同頁に、「日本に渡来し、日本の国籍を得た外国人を渡来人という」定義が掲げられており、これでは、上田氏の上掲書での「帰化人」概念批判をまったく考慮していないことになる。おそらく、校訂以前は「帰化人」となっていたところを機械的に「渡来人」に置き換えただけだったためにこのような不整合な記述が生じてしまったのだろうと推測される。
 さて、三年前に出版された上田氏の『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』(角川選書)は、『帰化人』出版後ほぼ半世紀の古代史における学問的成果を踏まえて、それに伴っての著者自身の見解の深まりとともに新たな見地から渡来人についての考察をまとめた大変に読み応えのある一書である。
 『渡来の古代史』において、豊富な事例に基づいて多角的に実証されていることを一言でまとめれば、以下の通り。
 渡来人たちは、政治や経済ばかりでなく、文化の分野でも大きく活躍した。それは「影響」という言葉では覆いきれない。なぜなら、渡来人たちは、古代日本文化のそのものの担い手として活躍し、文化の創造にも注目すべき役割を果たした。
 明日の記事では、同書の中で特に私の関心を引く何箇所かについて、感想を述べることにする。