内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

方法としての「風土記」 ― 「地方」と「古層」という二重の「彼方」からの眼差しによる「中央」の相対化の方法(二)

2017-10-22 20:54:02 | 読游摘録

 三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書、2016年)は、風土記についての当たり障りのない「やさしい」概説書などではなく、著者の創見と大胆な仮説が随所に見られるとても刺激的な本だ。
 本書は、単に日本古代社会とそこに生きた人たちの世界像をよりよく理解するための鍵を与えてくれるだけではなく、政治と歴史と宗教との時代を超えた本源的な関係を根本から考え直すための具体的な出発点を与えてくれる。
 以下、同書を読んでいて私がマーカーをつけた箇所の中からいくつかを摘録する。ただ、電子書籍版なので頁数は示せない。単純に前から順に並べていく。ときどき若干のコメントを付す。

法と史との試みはつねに対応するかたちであらわれてくる。

古代律令国家において法と史とはつねに対になる存在として認識され、その撰録・編纂の事業は並列的に行われてきた。

 ここでいう「法」とは、権力のことであり、それは律令として具体化される。「史」とは、国家への帰属という共同幻想の根拠としての史書のことである。

中国語のネイティブが「日本書」紀の編纂にかかわっているという事実が明らかになった[…]。

 この事実は、『日本書紀』の成立過程が『古事記』のそれと決定的に異なっていることを示している。ところが、近代が創り出した「記紀」という呼称には、古事記と日本書紀とをまるで八歳違いの双子であるかのうように認識させてしまう「呪力」がある。この「呪力」を巧みに利用したのが明治政府である。

正史であるゆえに味気ない日本書紀の描く歴史と、物語としてのおもしろさに満ちた古事記の神話や伝承とを混ぜあわせることで、近代市民国家のための歴史を創出することができたからである。その近代のロジックに騙されて、「記紀」への信仰は今も生き続けている。

 「記紀」という呼称が『古事記』と『日本書紀』とが相俟って一つの整合的な古代日本神話世界を形成しているかのような誤解を与えることは、上田正昭がすでに再三指摘していることである。上田氏は、それゆえ、「記紀」と表記するかわりに、「記・紀」と両者の間に中黒を打ってその違いを示そうとしていた。
 この点に関しては、三浦氏もまったく同意見だと言っていい。特に、このような「記紀史観」が近代国家の作為の産物に過ぎないということが重要だ。明治に捏造された虚構による古代史の歪曲によって、私たちは、長年に渡って、日本史の生ける「古層」へのアプローチを阻まれてきたということである。

おそらく、日本書紀の日本武尊と古事記の倭健命との違いを、律令国家が要請した遠征する皇子像と、国家の周縁で求められたさすらう御子像として把握できると思うのだが、そうした認識を風土記にみられるヤマトタケルという人物に当てはめたときに、何が言えるか。

 古事記・日本書紀・風土記に対していわば三角測量を行うことで新たに日本古代史像を再考すること、それが三浦氏の学術的戦略であると言っていいであろう。
 上掲の引用箇所以降にも随所にこちらの思考を刺激する創見と洞察が見られるのだが、関心のある方は直接同書に当たられたし。