内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「記号は意味するが、形は己自身を意味する」― 意味生成の現場としての〈形〉

2017-04-02 20:14:33 | 哲学

 アンリ・マルディネの論文 « L’esthétique des rythmes » にアンリ・フォシヨンの Vie des formes(同書の邦訳は、昨日の記事に示した杉本秀太郎訳だけでなく、阿部成樹訳『かたちの生命』ちくま学芸文庫、2004年もある。どちらも未見)からの引用がある箇所をまず下に引く。

Or cette distinction qui vaut pour un signe, par exemple un mot (ici un verbe) dans un discours, n’est pas vraie d’une forme. « Le signe signifie, la forme se signifie », a écrit une fois pour toutes H. Focillon. Autrement dit : une forme est son propre discours. En elle genèse, apparition, expression coïncident. Sa constitution est inséparable de sa manifestation et sa signification est une avec son apparaître. Entre elle et nous aucune interprétation. L’acte par lequel une forme se forme est aussi celui par lequel elle nous informe (H. Maldiney, Ragard Parole Espace, op. cit., p.216).

 この引用の直前の段落で、「内包された時間」(« le temps impliqué »)と「説明された時間」(« le temps expliqué »)とが対比されている。前者がまさに生きられつつある時間に、後者が過去・現在・未来に分節化された時間にそれぞれ対応している。引用の冒頭の「この区別」は、後者のような分節化された時間における区別を指している。それを踏まえてのマルディネの論旨は以下の通り。
 このような区別は、「記号」、例えば、ある言説の中での一語には妥当するが、「形」には当てはまらない。H・フォシヨンがきっぱりと言っているように、「記号は意味するが、形は己自身を意味する」。言い換えれば、一つの形はそれ自身の言葉を持っている。形において、生成と現前と表現は一致している。形の構成はその顕現と不可分であり、その意味作用はその現れと一つである。形と私たちとの間にはいかなる解釈の入り込む余地もない。形が己を形成する作用は、形が私たちに形を与える作用でもある。
 前段落の最後の一文の後半は原文の « celui [=l’acte] par lequel elle nous informe » に対応しているのだが、ここで動詞 « informer » を(情報を)「知らせる」とは訳せない。しかし、形が形自身を私たちに伝えるということでもない。形が己自身を形作ることで私たちもその形の生成過程に入ること、と言えばまだましだろうか(ここでシモンドンの information 論を想起しないわけにはいかない)。
 つまり、目の前に在る形を分析・理解・解釈することが、その形を一記号として或る概念の体系の枠組みの中に位置づけ、他の諸記号と関連づけることからなるとすれば、形自身が生み出す意味は、そのような手続きによっては接近不可能であり、その形が生まれつつある時にその場でその形ととも生きつつそれを捉えるほかない、ということだろう。
 時間の持続の中へのある形の現れがあるリズムの形成にほかならないとすれば、その形が生成する場所でそのリズムに合わせて生きることによってはじめて、その形の意味が私たちに開かれることになる。リズムとはある形の意味生成の律動そのものであるとすれば、私たちはそのリズムに合わせて形とともに生きることによってしかその形の意味に参入することはできない。