内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

方法としての日本の私

2017-04-14 16:02:55 | 哲学

 私ごときが偉そうに言うべきことではないと重々承知してはいるのですが、学生たちを前にすると、つい立場的な優位性を利用して(といっても、彼らはちゃんと醒めた眼でこちらの多寡が知れた力量を見抜いていることがほとんどの場合なのですが)、性懲りもなく繰り返している言説があります。その都度言い方には多かれ少なかれ違いがありますが、一言に要約すれば、「方法意識を持て」ということで、至極当たり前のことです。
 彼らが学ばされている内容は多岐にわたり、それらは彼らにとって面白かったりつまらなかったりするわけです。それで、彼らにしてみれば、こんなこと勉強していったい何の役に立つんだよぉと愚痴りたくなるときも当然あるわけですね。
 逆に、「お役立ち情報」ばかり提供するような話に対しても、別の理由でちゃんと警戒すべきなのですが、それについてはいずれまた別の機会に話題にすることにしましょう。
 そんな「つまんねぇ~」話を聞かされていると彼らが感じているであろうときに、ちょっと考えてみてくれないかなって、彼らに次のように話すことがあります。
 語られている内容そのものに自分が興味をもてるかどうかとは別に、そしてその内容が今自分たちが生きている現実に対して即効性を持っているかどうかはひとまず括弧に入れて、そこで対象となっている事柄に対して、どのような「道具」を使い、どういう手順で作業し、その結果としてどのような結果が得られているのかに注意を払ってみてほしい。つまり、どのような方法を使って結果が得られているかに注意を集中してみてほしい。そうしてみて、そこに何か一貫したプロセスが見いだせれば、それは別の問題場面に応用可能かもしれない。つまり、「使える」かもしれない。
 じゃぁ、そういうお前はそんな授業ができているのかよ、って問われれば、正直、ちょっと口ごもっちゃうところもあるのですが、「方法意識を持て」と常日頃言っている手前、そんな意味で「使える」授業を目指してはいるつもりです。
 今日の記事の一見意味不明なタイトルの「心」はそんなところにあります。