内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言葉が生動するとき ― 身体に書き込み、腹から声を出す

2014-09-12 19:55:06 | 講義の余白から

 今日は朝から夜までずっと細雨が音もなく降っていた。日中の最高気温は十五、六度。第一週目の講義も今日金曜日の午前九時からの古代日本文学史の一コマで終わり。こんなちょっと寒く暗い日に講義をするのは嫌いではない。雨に濡れてしっとりしたキャッンパスには、歩いている学生たちも晴れた日に比べれば格段に少なく、教室内も全体として静かで落ち着いた雰囲気に包まれる。
 昨日と同じ学部二年生の講義なので、顔ぶれも昨日と同じなのだが、今日の教室は定員五十人ほどの小さな教室で、最前列の学生たちとは二メートルと離れていない。最後列の学生たちとも隣同士の小声の私語が聞こえてくるほどしか離れていない。昨日のような階段教室だと離れたところに座っている学生たちを見上げるようにして話すことになるが、今日の教室では、座って話せば向い合って普通に会話するような調子で話せるし、立って教室内を歩けば、どの学生の側にもすぐに立つことができる。すぐ前あるいは横に立たれたときの学生たちの緊張もよくわかる。
 私は原則として詳細な講義ノートは用意しない。小型ノートの見開き二頁にその日話すことの要点だけメモしておき、大抵はそれも見ないで話す。とはいっても、そのときの思いつきで話すのではなく、まったく逆に、その日話す内容の全体の構成が「一望」できるようになるまで、前日までに繰り返し頭の中で反芻する。感覚としては、言いたいことをノートに書き込むのではなく、自己身体に直接書き込んでおくとでもいった感じである。そして、教室では、その体に書き込まれた言葉を腹から聞き手に向かって発する。
 自分の話が相手に伝わったと確信できるときには、きっと次のようなことが起こっているのだと思う。頭で言葉を探すことなく、身体の内側から言葉が自ずと沸き起こり、それが「肉声」となって身体器官によって発せられるとき、その言葉は聞き手の身体に共振を引き起こす。このとき、その言葉は、単に知的に了解されたのではなく、聞き手の身体の中で生動し始める。
 今週の五コマの授業では、そのいずれにおいても、これまでの長い期間に自分の身体に深く書き込まれていた言葉の群れが一気に生動し始め、それらの言葉が自ずと私の体を使って発せられていくかのような感覚を抱きながら話すことができた。あたかもそのように発現しうる場所をそれらの言葉が今までずっと待っていたかのようであった。幾分かでもそれらの言葉が学生たちの心身に共振を引き起こし得たとすれば、教師としてこれにまさる幸いは私にはない。