内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「地獄は一定すみかぞかし」―『歎異抄』より

2024-06-19 13:13:10 | 読游摘録

 「地獄」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべる日本の古典は『往生要集』と『歎異抄』である。前者の「厭離穢土」に見られる凄絶な地獄の描写は一度読んだら忘れられるものではなく、後者に録された親鸞の言葉「地獄は一定すみかぞかし」は、いわゆる「悪人正機」説よりも私の脳髄には強く響いた。

念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりとていふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。

 そして同じ第二条のむすびの言葉にも、最初に読んだときからその立場の徹底性ゆえに驚嘆した。

詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なつかしき『蜻蛉日記』再訪

2024-06-16 12:53:39 | 読游摘録

 四日前から手元にある『蜻蛉日記』の注釈書(電子書籍版も含む)の再読に多くの時間を割いている。これは修士論文のテーマとして『蜻蛉日記』の受容史を選んだ修士一年生の年度末報告書の審査の準備のためである。
 私は副査でこの学生の論文指導にはあたっていない。この年度末審査は、論文作成の進捗状況によっては実施できない場合もあり、するかしないかは指導教官の判断に任せられている。だから、審査というよりも、学生の論文作成途中報告書について問題点を指摘し、今後の研究ためのアドヴァイス、特に来年度一年間の日本留学期間中に構築すべき参考文献目録と主要文献の収集あるいは閲読についてのアドヴァイスをするのが主な目的である。
 当の報告書は、主題と構成の提示とこれまで読んだ注釈書・参考文献からの摘録の域を出ていない。まだ一年生で、はじめての論文作成なのだから、たいていはこんなものである。「日本語の注釈書をよくがんばって読みましたね。引き続き勉強を続けていってくださいね。Bon courage ! 」と笑顔で一言、ハイおしまい、にしてもいい程度の進捗状況である。
 しかし、『蜻蛉日記』は私が愛読する古典の一つで、その新潮日本古典集成版は、仕事机に向かって椅子に座ったままちょっと背伸びをすれば届く右側の書棚に、『紫式部日記』『和泉式部日記』といっしょに並べてあるくらいであるから、そうはいかないのである。
 私にできるかぎりのアドヴァイスをすべく、主な注釈書をすべて再読した。特に、九年前にストラスブール大学とCEEJAで三日間に亘って行われた国際シンポジウムでの発表の準備のときに付箋を貼った箇所やマーカーを引いた箇所をなつかしく読み直した。このような機会を与えてくれた同僚と学生に感謝している。
 この発表の原稿は、後にシンポジウムの論集 MA ET AÏDA. Des possibilités de la pensée et de la culture japonaise, Philippe Piquier, 2016 に « Le cœur, le corps et le paysage ne font qu’un » というタイトルで収録された。さらにその後、日本語バージョンを『世界文学』という学会誌に「心身景一如 ―日本の詩文における「世界内面空間」の形成―」というタイトルで掲載してもらった。この論文のための覚書をこのブログに二〇一五年二月二十一日から五回に亘って連載した。
 きっかけはなんであれ、古典を読むことで与えられる愉悦は何度味わってもよいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


動物たちにも心的装置を認めた最晩年のフロイト

2024-06-15 11:25:09 | 読游摘録

 フロイトは、昨日引用した『文明への不満』の三年前に刊行された『幻想の未来』(1927)のはじめのほうで、文化と文明とを区別しないでと断ったうえで、文化(文明)に次のような定義を与えている。

文化とは、人間の生を動物的な条件から抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもののことである。(光文社古典新訳文庫『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、2013年)

 この定義そのものはフロイトの独創によるものではなく、当時としては多くの欧米知識人たちに共有されていた文化(文明)観であろう。文化(文明)をもっていることにおいて、人間は動物たちとは異なり、より高度な存在である。このような考え方に当時反対する人がいたとしても、それはごく少数だったろう。
 ところが、心的装置に関して、最晩年のフロイトは『精神分析概説』(死の前年1938年に書かれ、死後1940年に刊行)の第一章の末尾で次のように述べている。

心的装置のこの一般的な構図は、人間と心的類似性をもった高等動物についても当てはまる。超自我の存在は、人間においてと同様、その成長過程初期にかなり長い期間依存関係に置かれざるを得なかった生き物の場合にはいたるところに認めるのが妥当であろう。自我とエスとの区別は否定しがたい事実である。動物心理学は、ここに提供されたままになっている興味深い研究にまだまったく取り組んでいない。(仏訳Abrégé de psychanalyse, PUF, 1951からの私訳)

 『幻想の未来』では、文化の定義において人間と動物とをはっきりと区別していたフロイトが、最晩年には、少なくとも高等動物と人間との間の心的装置における類似性を認めていたことは興味深い。フロイトが飼い犬をとても可愛がり、それこそ家族として認めていたことはよく知られているし(二匹の飼い犬についてビンスワンガーに送った1929年12月27日付の手紙参照)、飼い犬と戯れる最晩年のフロイトは映像としても残されている。
 心的装置における人間との類似性をどこまで動物たちに拡張できるかは難しい問題だと思う。ただ、上掲の引用にあるように、成長過程初期に一定期間なんらかの依存関係に置かれた動物たちにその行動を規制する超自我の存在を認めるという仮説に従えば、心的装置を、言語と無意識の関係にのみ基づいたそれに限定することなく、また人間との接触の多寡とは関わりなく、動物たちにも認めることができるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ロマン・ロランの「大洋感覚」への誘惑とそれに対するフロイトの懐疑の間で引き裂かれ、不安に打ち震えるだけの小さな自分

2024-06-14 11:11:14 | 読游摘録

 ピエール・アドは、La philosophie comme manière de vivre, Albin Michel, 2001 ; Le Livre de Poche, « biblio essais », 2004(『生き方としての哲学』法政大学出版局、小黒和子訳、2021年)のなかで、ロマン・ロランのいう 「大洋感覚」(le sentiment océanique)を « l’impression d’être une vague dans un océan sans limites, d’être une partie d’une réalité mystérieuse et infinie » (「限りない大洋の波のひとつであり、神秘的で無限な現実の一部をなしているという印象」)と説明し、ロランの「大洋感覚」の詳細な考察にその一節を割いている Michel Hulin の La mystique sauvage. Aux antipodes de l’esprit, PUF, 1993 ; collection « Quadrige », 2008 から自らの説明を補強するために二箇所引用している。アドが省略している部分も復元して当該箇所を引用する。

Ce qui domine alors, c’est l’intensité du sentiment d’être présent ici et maintenant, au milieu d’un monde lui-même intensément existant, auréolé d’un éclat particulier, saturé de valeurs, prégnant de toutes sortes de qualités éminentes. Bien plus qu’une mythique confusion entre le Moi et le non-Moi, c’est le sentiment d’une co-appartenance essentielle entre moi-même et l’univers ambiant qui s’y déploie. (op. cit., « Quadrige », p. 67-68)

そのとき支配的なのは、それ自体が強烈に存在し、特別な輝きに包まれ、価値が飽和し、あらゆる種類の卓越した特質を含みもった世界のただ中に、今ここに存在しているという感覚の強さである。自我と非自我の間の神話的な混沌などではなく、そこに展開されるのは、自分と周囲の宇宙との間の本質的な共同帰属の感覚である。(私訳)

 ピエール・アドが称賛してやまないこの本の中で、いかなる宗教にも精神的伝統にも属さない「野生の」神秘経験の実例をミッシェル・ユランはふんだんに引用し、それらの間に見られる共通性から、文明の相違を超えた神秘経験の普遍性を実証しようとしている。ロランの「大洋感覚」はその一つの実例として詳述されている。
 本書の考察の起点は、フロイトとロランの往復書簡のなかに明らかに見て取れるこの感覚についての両者の態度の違いにある。フロイトはこの感覚を前にしての躊躇いをロランに隠さない。フロイトは、ロランのいう共同帰属感覚は、明らかにすべき諸限界の区別が曖昧となり、それらが相互的に混信した結果なのではないかという考えにどうしても傾く。その傾きがよく現れているのが『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur, 1930)の冒頭である。

わたし個人としては、こうした感情が原初的な性格のものであるとは確信できない。ただし他者にこうした感情が実際に存在することも否定できない。問題なのは、この感情をわたしたちが正しく解釈しているかどうか、これがすべての宗教的な欲求の「源泉にして起源」であることをみとめることができるかどうかである。(光文社古典新訳文庫、中山元訳、二〇一三年)

 ロマン・ロランが語りピエール・アドが共感する「大洋感覚」への誘惑は私も強く感じるが、フロイトの懐疑にも耳を傾けたい。そのように引き裂かれて不安に打ち震えているだけの小さな自分以外のものではありえそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「宇宙的尺度」と「奇妙な絶対知」― サン=テグジュペリとメルロ=ポンティ

2024-06-13 13:36:44 | 読游摘録

 サン=テグジュペリの『人間の大地』のなかで「宇宙的尺度」(l’échelle cosmique)という表現が使われている段落を読んでみよう。

Nous voilà donc changés en physiciens, en biologistes, examinant ces civilisations qui ornent des fonds de vallées, et, parfois, par miracle, s’épanouissent comme des parcs là où le climat les favorise. Nous voilà donc jugeant l’homme à l’échelle cosmique, l’observant à travers nos hublots, comme à travers des instruments d’étude. Nous voilà relisant notre histoire.

僕らは物理学者や生物学者に変身し、大河流域の低地を彩る文明を、気候に恵まれたところではときに奇跡的に庭園のように花開く文明を、調査する。僕らはそうして人間を宇宙的尺度で評価し、飛行機の窓から、あたかも実験器具を通じてのように観察する。僕らは僕らの歴史をそうして読み直す。(光文社古典新訳文庫版渋谷豊訳を改変)

 地上からすべてを観察するほかなかった時代は、たとえ尖塔や山の上から観察するにしても、観察されるものと観察するものとは地続きであった。逆に、空は見上げることしかできなかったし、満天の星も地上から観察するしかなかった。
 飛行機の登場とともに、空から地上を観察できるようになった。地上にあるすべてのものから自分を切り離して、それらを空の高みから見下ろすという視点を獲得した。その延長線上に宇宙から見た地球という観点もすでに予想していたからこそ、サン=テグジュペリは「宇宙的」という言葉を使ったのではないだろうか。
 人間が世界を観察する新たな尺度を手に入れたことを示す「宇宙的」という言葉は、だから、「地上」(terrestre)と「天上」(céleste)という対比的な構図とも違う世界観を示している。
 他方、その世界観はメルロ=ポンティが「生成しつつあるベルクソン」のなかで述べている「奇妙な絶対知」(étrange savoir absolu)と背反するものではない。

Le temps est donc moi, je suis la durée que je saisis, c’est en moi la durée qui se saisit elle-même. Et dès maintenant nous sommes à l’absolu. Étrange savoir absolu, puisque nous ne connaissons ni tous nos souvenirs, ni même toute l’épaisseur de notre présent, et que mon contact avec moi-même est « coïncidence partielle » […]. En tout cas, quand il s’agit de moi, c’est parce que le contact est partiel qu’il est absolu, c’est parce que je suis pris dans ma durée que je la sais comme personne, c’est parce qu’elle me déborde que j’en ai une expérience que l’on ne saurait concevoir plus étroite ni plus proche. Le savoir absolu n’est pas survol, il est inhérence. C’est une grande nouveauté en 1889, et qui a de l’avenir, de donner pour principe à la philosophie, non un je pense et ses pensées immanentes, mais un Être-soi dont la cohésion est aussi arrachement.

だから時間は私であり、私は私がとらえる持続であり、私の内においてこそ持続がおのれ自身をとらえる。そして現時点からすでに私たちは絶対的なもののもとにいる。これは奇妙な絶対知だ。というのも私たちは私たちの記憶の全体も、私たちの現在の厚み全体も認識せず、私の私自身との接触は「部分的合致」[…]である。いずれにせよ、私が問題になる場合、接触は部分的だからこそ絶対的なものであり、私が私の持続にとらわれているからこそ、私はそれを誰のものでもないものとしてとらえるのであり、それが私を逸脱するからこそ、私はその経験をもつのだ。この経験はより密接だとも、より近いとも考えられないような経験だろう。絶対知とは上空飛行ではなく、内属のことだ。哲学に対して、「我思う」やその内在的な思考ではなく、凝集することが離脱することでもあるような〈自己であること〉という原理を与えたのは、一八八九年の時点においてはたいへん斬新なことであり、また未来にもつながる考え方だったのである。(『シーニュ』廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫、二〇二〇年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「飛行機の登場とともに、私たちは直線を学んだ」― 過去の読書経験の新たな交叉をもたらす一文 サン=テグジュペリ『人間の大地』より

2024-06-12 07:57:04 | 読游摘録

 フランス語の « à vol d’oiseau » という成句は「直線距離で」「空から見下ろして、鳥瞰の」という二つの意味をもっている。後者の意味では、日本語の「鳥瞰」のなかにも「鳥」が含まれていて、日仏どちらの表現とも「上空を飛翔する鳥のような視点から見ると」という意味で使われる。しかし、仏語の成句の前者の意味は文字通りとは必ずしも言えない。なぜならすべての鳥がいつも一直線に飛ぶとはかぎらないからである。
 人間も含めて鳥のように空を飛ぶことができない地上動物は地表を移動するほかない。何らかの乗り物を使おうがこの制約に変わりはない。直線道路や直線線路を例外として、地上では直線でつまり最短距離で移動することができない。それが鳥のように空を飛べれば可能になるだろう。こう考えて上掲の仏語の表現が生まれたのだと思う。
 実際に人間が地上の制約から解放されて空中の二点間を一直線に進むことができるようになったのは飛行機の登場とともにである。そのことをサン=テグジュペリは『人間の大地』(1939年)のなかでこう表現している。

飛行機の登場とともに、僕らは直線を学んでしまったのだ。飛行機に乗って飛び立てば、僕らは水飼い場や家畜小屋へと降りていく道、町と町を繋ぐ曲がりくねった道とすぐに袂を分かつ。慣れ親しんだ隷属状態から解き放たれ、泉を求める気持ちからも自由になって、はるかかなたの目的地にぴたりと機首を向ける。そのとき初めて、直線の軌道の高みから、僕らはこの惑星の基層を、岩と砂と塩でできた地盤を発見する。その地盤のところどころで、大胆にも生命が芽を出している。と言っても、所詮は瓦礫だらけの廃墟の窪みにわずかばかりの苔が生えたという程度のことにすぎないが。(光文社古典新訳文庫、渋谷豊訳)

Avec l’avion, nous avons appris la ligne droite. A peine avons-nous décollé nous lâchons ces chemins qui s’inclinent vers les abreuvoirs et les étables, ou serpentent de ville en ville. Affranchis désormais des servitudes bien-aimées, délivrés du besoin des fontaines, nous mettons le cap sur nos buts lointains. Alors seulement, du haut de nos trajectoires rectilignes, nous découvrons le soubassement essentiel, l’assise de rocs, de sable, et de sel, où la vie, quelquefois, comme un peu de mousse au creux des ruines, ici et là se hasarde à fleurir.

 飛行機の登場は、単に物理的・地理的に人間が直線軌道を進めるようになったことを意味するだけではない。それは、世界の見方を学び直し、人間の歴史を読み直す機会を与えた。
 この次の段落でサン=テグジュペリはさらに「宇宙的尺度」(l’échelle cosmique)という観点に言及する。それは私にフランスの地理学者 Michel Lussault(1960 -)が L’Avènement du Monde (2013) で導入している Planète – Terre – Monde という三つの観点の区別を思い起こさせた(この点についてはこの記事を参照されたし)。
 他方、メルロ=ポンティが『シーニュ』(1960)のなかで批判している「上空飛行的な哲学」のことも思い合わされた(« Qu’on regarde plus haut dans le passé, qu’on se demande ce que peut être la philosophie aujourd’hui : on verra que la philosophie de survol fut un épisode, et qu’il est révolu. »)。
 さらには、ピエール・アドが La philosophie comme manière de vivre のなかでロマン・ロランの le sentiment océanique 擁護しつつ、それをle sentiment cosmique と区別していることも思い起こされた(« En parlant de « sentiment océanique », Romain Rolland a voulu exprimer une nuance très particulière, l’impression d’être une vague dans un océan sans limites, d’être une partie d’une réalité mystérieuse et infinie. »)。
 『人間の大地』第四章「飛行機と惑星」のなかの直線についての一行が私のなかにこのようなさまざまな反響を引き起こし、過去の読書経験が自ずと交叉し、それらの間の結び目がさらに緊密となり、あらためて世界の見方を学び直す機会が与えられることは、読書がもたらす大きな喜びの一つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


燦々と言葉が響き合う大伽藍の片隅で

2024-06-11 11:54:39 | 読游摘録

 須賀敦子は、昨日の記事で引用した「星と地球のあいだ」のなかで、サン=テグジュペリの『戦う操縦士』から、もうひとつ「私にとって忘れることのできない文章」として、以下の堀口大學の訳文を引用している。

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人であれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。

Celui-là qui s’assure d’un poste de sacristain ou de chaisière dans la cathédrale bâtie, est déjà vaincu. Mais quiconque porte dans le cœur une cathédrale à bâtir, est déjà vainqueur. La victoire est fruit de l’amour. …… L’amour seul gouverne vers lui. L’intelligence ne vaut qu’au service de l’amour.

 同じ箇所の鈴木雅生訳も引こう。

完成した後の大聖堂のなかで安穏と香部屋係や貸椅子係の職にしがみつくだけの人はすでに敗北者だ。けれども、建立すべき大聖堂を心の内に宿している人は、すでに勝利者なのだ。勝利は愛が結実したものだ。……知性に価値があるのは、それが愛に仕える場合にかぎられる。

 心の内に建立すべき大聖堂とは、何かその人に固有の独創的な大事業などではないことは、この引用箇所が含まれている第24章の先立つ部分を読めば明らかである。それは、端的に一言で言えば、人間同士のコミュニオン(communion)である。
 きわめて簡勁な文体で綴られたその先立つ部分から一部を引用する。

私はこの村との語らいを心に決めていた。ところが私には語るべきことはなにもない。私は枝にしっかりとついた果実のようなものだ。数時間前、不安が収まったとき頭によぎったあの果実。自分はこの国の人々に結びつけられている、ごく自然にそう感じている。私はこの人々の一部であり、この人々は私の一部だ。あの主人はパンを皆に配ったとき、なにかを与えたわけではなかった。分かち合い、交換したのだ。同じ小麦がわれわれのなかをめぐった。主人は貧しくなりはしなかった。逆に豊かになっていた。よりよいパン、共同体のものとなったパンによって自らを養っていたのだから。今日の午後、この国の人々のために出撃したとき、私もまたなにかを与えたわけではなかった。わが隊の者は、この国の人々になにも与えてはいない。人々が戦争に払う犠牲の部分を担っているにすぎない。私は、オシュデがなぜ大げさなことをなにひとつ口にせず黙々と戦っているのか理解する。村のために槌をふるう鍛冶屋と同じなのだ。「あなたは誰だね?」と尋ねられる。すると鍛冶屋は「村の鍛冶屋です」とだけ答えて嬉しそうに働く。(鈴木雅生訳、一部改変)

Je m’étais promis cette conversation avec mon village. Mais je n’ai rien à dire. Je suis semblable au fruit bien attaché à l’arbre auquel je songeais, voilà quelques heures, quand l’angoisse s’est apaisée. Je me sens lié à ceux de chez moi, tout simplement. Je suis d’eux, comme ils sont de moi. Lorsque mon fermier a distribué le pain, il n’a rien donné. Il a partagé et échangé. Le même blé, en nous, a circulé. Le fermier ne s’appauvrissait pas. Il s’enrichissait : il se nourrissait d’un pain meilleur, puisque changé en pain d’une communauté. Lorsque j’ai, cet après-midi, décollé pour ceux-là, en mission de guerre, je ne leur ai rien donné non plus. Nous ne leur donnons rien, nous du Groupe. Nous sommes leur part de sacrifice de guerre. Je comprends pourquoi Hochedé fait la guerre sans grands mots, comme un forgeron qui forge pour le village. « Qui êtes-vous ? – Je suis le forgeron du village. » Et le forgeron travaille heureux.

 この村の鍛冶屋が「建立すべき大聖堂を心の内に宿している人」なのだ。
 この「大聖堂」という言葉を見たとき、十年前に書いた自分の記事のことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 


「人間はさまざまな関係の結び目だ。関係だけが人間にとって重要なのだ」― サン=テグジュペリ『戦う操縦士』より

2024-06-10 14:10:41 | 読游摘録

 「稀代」とか「当代無比」とか称される読書家でもある作家や批評家などの書評集成や読書日記などを読むと、名ガイドに導かれての名所の周遊や秘跡の探訪にも似た愉しみを味わえる。他方、どうやったらこんなにたくさんの本が読めるのか、しかもそれらの本について見事な書評や味わい深いエッセイなどが次から次へと書けるのかと、讃嘆の念とともに深く溜息をつくほかない。
 それらの読書家たちの渉猟する領域は広大だから、彼らの読んだ本のなかに私も読んだことがある本があったとしてもそれはまったく驚くにあたらないが、自分にとって大切な著作家が彼らにとってもそうであったことを書評や読書日記等を通じて知るのは嬉しい発見である。
 須賀敦子もそうした卓絶した読書家のひとりだったが、彼女にとって大切な著作家のなかに、シモーヌ・ヴェイユ、サン=テグジュペリ、ユルスナール、森鴎外などの名が見出されるのはことのほか私を喜ばせる。
 『遠い朝の本たち』(筑摩書房、一九九八年)に収録された「星と地球のあいだで」(初出「国語通信」筑摩書房、一九九二年十月号)はサン=テグジュペリのことがテーマになっている。
 大学を出た年(一九五一年)の夏、須賀は自分の行くべき方向を決めかねてそのために体調を崩してしまう。何人かの友人の誘いで信州の山の町に出かける。その旅荷のなかには『夜間飛行』と『戦う操縦士』が入っていた。その『戦う操縦士』がこのエッセイを書いている四十一年後にもまだ須賀の手元に残っている。

黄ばんだ紙切れがはさまった一二七ページには、あのときの友人たちに捧げたいようなサンテックスの文章に、青えんぴつで鉤カッコがついている。
「人間は絆の塊りだ。人間には絆ばかりが重要なのだ」
 あの夏、私は生まれてはじめて、血がつながっているからでない、友人という人種に属するひとたちの絆にかこまれて、あたらしい生き方にむかって出発したように思う。

 引用されている文の原文は、 « L’homme n’est qu’un nœud de relations. Les relations comptent seules pour l’homme. » である。上掲の訳が須賀自身によるのか他の人の訳なのかいま確かめるすべがないが、nœud を「塊り」と訳すのはどうかと思う。むしろ「結び目」のほうがよいと思う。実際、光文社古典新訳文庫版(二〇一八年)の鈴木雅生訳は、「人間はさまざまな関係の結び目だ。関係だけが人間にとって重要なのだ」となっている。
 「塊り」はそれ自体で独立している個体も指すが、ここでそれは当てはまらない。ひとりひとりの人間はそれぞれに独立した個体ではなく、さまざまな関係の結び目として生成発展し、身を挺して人を守り、人から守られ、共に戦い、また傷つき苦しみもする。
 『戦う操縦士』のこの一文は、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の最後に引用している一文でもある。しかし、『知覚の現象学』では、この一文に先立って、その数頁前の一節が多くの中略を含みつつ次のように引用されている。

« Ton fils est pris dans l’incendie, tu le sauveras... Tu vendrais, s’il est un obstacle, ton épaule contre un coup d’épaule. Tu loges dans ton acte même. Ton acte, c’est toi... Tu t’échanges... Ta signification se montre, éblouissante. C’est ton devoir, c’est ta haine, c’est ton amour, c’est ta fidélité, c’est ton invention... L’homme n’est qu’un nœud de relations, les relations comptent seules pour l’homme. »

「自分の息子が火災に巻きこまれたらどうする? もちろん助けようとするだろう… 行く手を阻む障害物があれば、自分の肩を誰かに売り渡してでも、肩で体当たりをするはずだ。自分というものは、肉体ではなく行為そのもののなかに存在している。己の行為こそが自分なのだ… 何かと交換に自分を差し出すのだ… 自分という存在の意味が燦然と輝く。その意味とは、義務であり、憎しみであり、愛であり、誠実さであり、発明である… 人間はさまざまな関係の結び目だ。関係だけが人間にとって重要なのだ。」(鈴木雅生訳、メルロ=ポンティの引用の仕方にあわせて一部改変)

 学部論文から博士論文まで十数年にわたって読み返してきた大切なテキストにこうしてまた立ち戻る機会を恵まれて、人間はさまざまな読書経験の結び目でもある、と言いたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近隣の複数の教会で同時に鳴り始めた鐘のように

2024-06-08 12:53:56 | 読游摘録

 教育・研究にとって重要だと判断した書籍と個人的な関心から味読したい書籍とは、紙版と電子書籍版の両方を購入することがここ数年多くなった。
 必要に迫られて部分的に参照するだけのときは電子書籍版を主に用いる。それは読書とは言えないと思うが、本の使い方の一つではある。こういう「便利な」利用法は、著者に対して失礼だと思うことはあるが、紙版だけで仕事をしていた頃に比べれば、検索・参照・引用箇所特定にかかる時間を圧倒的に節約できるようになったのがありがたい。
 他方、他の本で引用されていた一節を確認するために引用元の書籍の紙版の頁をめくっていると、思わぬ「余得」に恵まれることがある。調べる必要があった箇所とは別の頁で、あるいは、それをきっかけとして、別の本のなかで、心に触れてくる言葉、一文、一節などに出遭えることがある。しばしばあるとさえ言える。
 そのような出遭いや発見は愉しい。ただ、そういうことが続けざまに起こると、ちょっと危ない陶酔的な混乱状態に陥る。今、そうである。
 『須賀敦子全集』第八巻の松山巌の解説のなかにシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』からの引用がいくつかある。その中の一つが、「神についてどんな体験もしたことがないふたりの人の中で、神を否認する人の方がおそらく、神のいっそう近くにいる。/触れることがないという点を別として、にせの神は、あらゆる点で真の神に似ているのだが、それはいつでも真の神に近づく妨げになる。」(田辺保訳)
 原文は以下の通り。

 Entre deux hommes qui n’ont pas l’expérience de Dieu, celui qui le nie en est peut-être le plus près. 
 Le faux Dieu qui ressemble en tout au vrai, excepté qu’on ne le touche pas, empêche à jamais d’accéder au vrai.

 岩波文庫版の冨原真弓訳は同箇所を次のように訳している。
 「神の臨在を体験していないふたりの人間のうち、神を否認する人間のほうがおそらく神に近いところにいる。/偽りの神は、接触がかなわないという一点をのぞき、万事において真の神に似ているが、われわれが真の神に近づくのをどこまでも妨げる。」
 冨原訳中の「臨在」に対応する語は原文にはない。おそらく「神の体験」をインマヌエル(ヘブライ語で「神われらと共にいます」の意)と取っての訳だと思われる。
 この一節を読んで、私はジャン=リュック/ナンシーの『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(現代企画室、2009年)の次の一節を思い合わせた。
 「キリスト教的な保証とは、いわゆる宗教的な信仰=信条〔croyance〕のカテゴリ-とは完全に対極にあるカテゴリーにおいてのみ起こりうる。この信〔foi〕のカテゴリーは、不在性に対する忠実さであり、あらゆる保証が不在なところでこの忠実さに確信を抱くことである。この意味で、慰めを与えるような、あるいは贖いをもたらすようないかなる保証も断固として拒絶する神なき者[無神論者 athée]は、逆説的あるいは奇妙な仕方においてであるが、「信者」よりも信の近くにいる。」(七一頁)。

L’assurance chrétienne ne peut avoir lieu qu’au prix d’une catégorie complètement opposée à celle de la croyance religieuse : la catégorie de la « foi », qui est la fidélité à une absence et la certitude de cette fidélité en l’absence de toute assurance. En ce sens, l’athée qui refuse fermement toute assurance consolatrice ou rédemptrice est paradoxalement ou étrangement plus proche de la fois que le « croyant ».

La Déclosion, Galilée, 2005, p. 56.

 この一節、先月刊行された『滝沢克己の現在』(新教出版社)に寄せた拙論「哲学との一つの真正な出会い方」のなかで引用している。この直前の箇所でナンシーがその一節に言及しているマイスター・エックハルトの説教52「三つの内なる貧しさについて」からも引用している。
 今、頭の中で、いや、体中で、これらの文章が近隣の複数の教会で同時に鳴り始めた鐘のように重なり合って響いている。それが一過性の陶酔的な混乱に終わるのか、そこから何かが生まれてくるのか、まだわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『須賀敦子全集』第八巻所収の年譜と未定稿について

2024-06-04 23:59:59 | 読游摘録

 須賀敦子の全作品とその他の遺された文章を全部読みたいと思い、河出文庫版『須賀敦子全集』(全八巻、二〇〇七年)を日本のアマゾンで購入した。五月三〇日に発注、昨日三日に国際宅配便DHLで届いた。
 作品を読み始める前に、第八巻の二百頁に及ぶ膨大詳細な年譜を眺めた。集め得た証言や資料はすべての時代について均一ではないが、数々の興味深いエピソードがそれぞれの時代の歴史的な出来事や須賀の生涯にとって特に重要な出来事と織り合わされており、さらに年譜に登場する事項や人名などの理解の一助のための脚注が懇切丁寧に多くの頁に付されていて、それらすべてから立ち上がってくる須賀の生涯、その生きた時代と世界の「空気」に思わず引き込まれた。
 イタリアからの帰国後須賀が長く住んだ街が私の生まれ育った土地からほど遠からぬことや、年譜作成のための重要な協力者の一人が留学前に私がフランス語のことでお世話になった方だったことなども、より一層私の興味を掻き立てた。
 丸谷才一と池澤夏樹とともに本全集編集委員であり、第八巻の編者である松山巌がこれだけの労力と時間をかけてこの年譜を作成したのは、須賀自身の「研究すべき文学者が、いつ、どこで生まれ、どのような時代を過ごしたのか、注意すべきである」(同巻「解説」六六四〇頁)という考えを尊重してのことでもあろうが、それにしても年譜にここまで尽力するのはきわめて稀なことではなかろうか。
 同巻には、遺稿「アルザスの曲がりくねった道」の創作ノートと未定稿も収録されている。未定稿は四百字詰め原稿用紙にして四十枚強である。もし完成されたならばかなりの大作になっただろうと推測される書き出しである。
 その書き出しを読んでいて次の一節に行き当たった。

どういう連想のいたずらだったのだろう、息のはずむ思いで帰りの地下鉄に乗っていたわたしのなかに、四半世紀まえ、友人たちとたずねた(というよりは、通過した、というほうに近いのだが)アルザスの風景が、ぼんやりと浮きあがった。丘の斜面を被うぶどう畑のなかの、だれにも会わない曲がりくねった道を、わたしは歩いていた。あの道をもういちど歩いてみたい。あのとき、わたしは、長いヨーロッパでの生活に区切りをつけて、まもなく陸の国境をもたない遠い島国に帰ろうとしていた。手入れのゆきとどいたぶどう畑を、ただ美しいと思うだけで通りすぎたあの道を、もういちど歩いたら、あのときには見えなかった大切なもの見つけられるかもしれない。

 この一節を読んで、かつて何度も車で訪れたワイン街道のことをなつかしく思い出した。思い立てばいつでも日帰りでいけるところに住んでいるのだから、今度訪れるときは、車が走るワイン街道から逸れて、曲がりくねった道を歩いてみたいと思った。