城郭探訪

yamaziro

田部山城/田部城  近江国(木之本)

2016年07月06日 | 山城

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お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町田部 map:http://yahoo.jp/FWwuwJ
現 状:山林
区 分:山城
築城期:織豊期
築城者:田部氏
標 高:220m  比高差:120m 

遺 構:郭・土塁・堀切・土橋・説明板
目標地:等波神社
駐車場:田部集会所
訪城日:2016.6.26途中で断念、2016.7.5途中で断念

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お城の概要

田部山城は田部町の背後に聳える標高230m程の通称城山に築かれている。 城山は北西部を中心として東西方向と南北方向に尾根が伸びているが、城は東西方向の尾根に築かれている。

田部山城は東西に伸びた尾根の東側に広い曲輪、西端から北西方向に曲輪が連なるが、この両曲輪を含めるように土塁が付いている。幅10mにも満たない尾根に南北両側に土塁が付いて通路状になり、東へ進むと広い曲輪となる。この東の曲輪は中央に土壇があり、その周囲を武者走りの通路として外側に土塁が付いている。東端に開口部があり、土橋が架かる深い堀切が一条東尾根を遮断している。

西の曲輪は南に虎口を開き、南尾根に一条土橋の架かる堀切がある。北西方向へ段は続いているが、遺構は不明瞭である。

田部東の信号で、この正面の山が城址で、すぐに城山トンネルの入口にの登り口がある。また、田部集会所の横の等波神社に入り、本殿を正面に右手に山に登る道がある。本殿の右奥から尾根上に登ることができ、尾根伝いに北へと山道が付いている。(要注意:山道は途中西側へと降りて集落へ。)

ここの所の手前で、伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが断念

この付近から少し薮をかき分けて150m程北上すると「田部山城跡」の案内板があり、その先に堀切がある。

 尾根まで登り、右手に進んだら城跡です。城内は伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが、主郭を取り巻いている低い土塁と主郭東側尾根の外側にある堀切(竪堀)が明瞭です。主郭西側の副郭の西側虎口土塁もなんとか判ります。ここから南尾根に説明板があろ。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「田部山城主 住 〈元勢州田部義士後弾正義氏男〉田部民部小輔信頼」と記し、

 居館があったとされる集落内の宅地開発で消失したようだ?「遺跡ウォーカーの比定地田部城田部民部小輔信頼の居館。田部山城は田部氏の詰城。

 浅井氏の家臣の田部氏の居城でしたが、元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。城の縄張りは城山頂部を主郭とし、南西に副郭を持ち、その二つの郭を低い土塁を持った廊下状の郭で連結しています。主郭は土塁に囲まれ、東西60m×南北26mの半月状の郭で、郭内中心部に不整方形の土壇状の高まりがあります。

 浅井氏の家臣田部氏の居城であったが。 浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱では朝倉氏の軍勢が駐屯したと云われ、後に丁野山城主の中島宗左衛門も田部山城に合流した。

信長公記 巻六 元亀四年  11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

        

田部集会所の横の神社に入り、本殿を正面に右手に山に登る道。                            

     小谷山(大嶽城)   西に降り田部集落へ      集落に戻る

 田部集会所に駐車

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『信長公記』、『江州佐々木南北諸氏帳』

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