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城郭探訪

yamaziro

小川中ノ城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川 map:http://yahoo.jp/T2crID

目標地:小川のバス停

区 分:丘城

標高:390m  比高:60m

現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・堀切・武者隠し

築城期:織豊期・・嘉元3年

築城者:鶴見伊予守・小川俊盛

駐車場:登城口に

訪問日:2016.2.8

主郭背後を三重の堀切が守るお城。

お城の概要

 集落東側の山すそに「中之城」の案内があり、ここから登ります。5分程度で主郭に到達します。尾根先端を削平し、尾根は大きな堀切で切断されていて、郭の尾根側(堀切)は削り残しの大きなコの字状の土塁が残っていました。この郭はけっこう広く、幅20m*長さ40mくらいあるでしょうか。監視の城というより出撃の城つう感じです。この中之城から堀切の先の尾根をさらに登っていくと小川城に到達します。この間、小郭が二箇所、堀切が連続して数箇所認められます。本城と支城の連絡道がきれいに残っているという感じです。中之城から小川城まで1.5Kmと表示ありますが そんなに距離は感じませんでした。

小川中ノ城は、小川城の居館とも云える城。

 山頂の小川城と麓の中ノ城は、尾根伝いに登城道が通じているが、その尾根を三条の堀切で防禦し、馬蹄形の切込土塁で三方を囲んだ広い曲輪となっていて、伊賀や甲賀によく見られる豪族居館様式の縄張りとなっている。 

この城の見どころは何と言っても幅約10m・深さ約8m程もある主郭背後の大堀切だろう。

 

 

歴 史

小川城は、嘉元3年に鶴見伊予守によって築城されたとされているが、小川俊盛によって築かれたとの説もあり、築城年代・築城者については定かではない。

 戦国時代、小川城は多羅尾氏が城主となり、信楽一帯の盟主として勢力を誇ったが、文禄4年に豊臣秀次事件に連座し改易され、小川城は廃城となった

 尾根道であるが、土塁が畝状にいくつも!ここから「中の城郭」域です。中の城址~小川城への案内板・・・ここを下って行きます。大堀切竪堀も左右に大きく、はっきりと!大堀切(深さ5m)この上が中の城主郭で狭いこの道下れば集落、西の城へ主郭

 山すそに集落東側の「中之城」の案内があり、ここから登れます。5分程度で主郭に到達します。尾根先端を削平し、尾根は大きな堀切で切断されていて、郭の尾根側(堀切)は削り残しの大きなコの字状の土塁が残っていました。この郭は、幅10m×長さ10mくらい。監視の城というより出撃城・出丸・物見櫓ヵ。この中之城から堀切の先の尾根をさらに登っていくと小川城に到達します。この間、小郭が二箇所、堀切が連続して数箇所認められます。本城と支城の連絡道がきれいに残っている。中之城から小川城まで1.5Kmと表示ありますが そんなに距離は感じません

駐車スペース

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


多羅尾滝の磨崖仏

2016年02月09日 | 探訪「大地の遺産」

 

 

529-1821 滋賀県甲賀郡信楽町多羅尾

『甲賀市指定史跡』多羅尾(たらお)滝の摩崖(まがい)石仏群

多羅尾(たらお)は奈良から近江へ、また京都から伊賀・伊勢への道が行き交う交通の要地です。

京街道に沿った大きな岸壁に、阿弥陀如来像を中心に、地蔵菩薩像や不動明王像などの石仏や五輪塔(ごりんとう)が刻まれている他、舟形光背を背にした数多くの地蔵菩薩像などを見ることができます。

注目すべきは、正中二年(1325)という鎌倉時代後期の年号が彫られていることで、さらにその他の石仏の製作年代を考えると、室町時代後期にかけて、順次彫られたものとみられます。

これらの石仏の中には、彩色のあとも見出され、極めて貴重な摩崖(まがい)石仏群といえます。

かつてこの地域には山岳宗教が栄え、石仏群の前方には滝の行場があったと伝えられ、石仏たちは、こうした山岳修行と関係があったのかもしれません。

街道は御斉峠(おときとうげ)を越えて伊賀上野に通じ、往時は旅人の安らぎの場にもなっていたでしょう。

多羅尾(たらお)学区自治振興会』

甲賀市信楽町多羅尾 多羅尾滝の摩崖石仏群

甲賀市信楽町多羅尾 多羅尾滝の摩崖石仏群


多羅尾古城  近江国(甲賀・信楽)

2016年02月09日 | 丘陵城

城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾小字古城 map:http://yahoo.jp/kVF87F

現 状:森林

区 分:丘陵城

標 高:520m 比高差:50m

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

廃 城:元亀年間

遺 構:曲廓、腰廓、堀切、土塁、土橋、物見櫓

目標地:多羅尾小学校・里宮神社・市民センター

駐車場:市民センター

訪城日:2006.2.8

お城の概要

 多羅尾中野集落へ北西に伸びた尾根の先端を削平して曲輪としている。尾根を切岸にして土塁状に残すのはこの辺りの城館によく見られる加工である。尾根上は少し自然地形があり、その先に一条の堀切を設けて遮断している。南側に帯曲輪があり、ここは畑となっていたようである。

構造は、東側の丘陵続きを堀切で遮断し、先端から削り込み東西35m、南北25m程の主郭。東面は掘り残しの櫓台状の土塁とし、土塁の天端は12m四方程の広さがある。主郭の南側下方には、東西40m、南北10m程の腰郭、麓からの城道もこの腰郭に通じていたと見られている

多羅尾小学校の南側の県道に大戸川の橋を渡った所に、岩洞山不動尊の石碑と案内板背後の丘陵が城址。 南麓民家への道を突き当りまで、動物除けの柵を越えて斜面の登城道(元大手道)を上る。

歴 史

城主が多羅尾氏と云われ、多羅尾集落を支配するための拠点とした城館であった。

 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。13世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁4年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

 、この光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。多羅尾古城・・遠景(多羅尾城山城の下から)  破壊された大手道

東側の億から回り込んで大手道に

ここから

Ⅱの腰廓

主郭部

山麓廓か、畑か

空き家の民家(県道沿いに人形が2体)西谷へ。堀切(竪堀?)を下りてきました。

多羅尾氏 抱き牡丹/藤巴●藤原北家近衛氏流 

『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。

                 浄願寺 http://tempsera.at.webry.info/201204/article_20.html
 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長
に仕え天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

 家康の伊賀越え

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康っまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。

 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。

栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。
 この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。

 多羅尾公民館(市民センター)に駐車

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


多羅尾城山城 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月08日 | 丘陵城

城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾字城山、井出山 map:http://yahoo.jp/-JS7kM

現 状:森林

区 分:丘陵城

標 高:520m 比高差:30m

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

廃 城:元亀年間

遺 構:曲廓、大堀切、土塁、物見櫓、虎口桝形

目標地:多羅尾小学校・里宮神社・市民センター

駐車場:市民センター

訪城日:2016.2.5・2006.2.8

お城の概要

 東へ伸びた尾根の先端を掘り下げて削平し、背後の尾根を土塁状に残して曲輪としている。曲輪は南北に長く東に二段の小段が付き、南は土塁状に削り残した尾根に向かって段々になっている。西背後の尾根は南北両側から傾斜が付き、西側を堀切で遮断している。

 登城口・・・県道の終点から南へ橋を渡り多羅尾陣屋跡の方に進む。大同川の橋を渡って直ぐに西側に赤い消防ホース格納箱があり「多羅尾9」とある。これの北側に細い通路があり、この道が山上に通じている。

 信楽町多羅尾のうち浦出集落の北、多羅尾代官陣屋の北方に、丘陵東先端部に築かれている。大戸川が城の北裾を流下している。
構造は、西側の丘陵続きを両側に土塁を伴う堀切で遮断し、先端から削り込み東西30m、南北70mの主郭を造成し、さらに南側に段々に高くなる三段の平坦地を、主郭東側には段々に低くなる二段の郭を付帯させている。虎口は、主郭の北西隅に開口し、一段低い内桝形から土塁北側を回り、北西麓へと下っていたと思われる。現在は、東端から登る道が付けられている。
堀切内側の土塁は高々と聳える巨大なもので見応えがある。

歴 史

城主が多羅尾氏と云われ、多羅尾集落を支配するための拠点とした城館であった。

 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。13世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁4年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾代官屋敷跡方面

主郭部

主郭背後の大土塁

大堀切

多羅尾代官屋敷跡の北端(頂部に石垣が見える)多羅尾城山城の下・・県道から南から見上げて

登城口

 

多羅尾集落の辻から旧道を行くと多羅尾小学校の隣にこの里宮神社が鎮座する。

里宮神社(さとみやじんじゃ)(宮の谷)

御由緒
本殿は建久年間那智新宮より素盞鳴尊を勧請したのが創祀で、産土神とし奉祀する。その後、安政元年近衛基平の子、高山太郎師俊が紀伊那智新宮より大年神を勧請し、社名を里宮神社と号し現在に至る。本社の造営費等は高山太郎師俊が姓を多羅尾と改め明治維新まで多羅尾代官として、寄進せられた。

 天正信長時代には牛頭天王(ごずてんのう)として村の人達がお祀りしたといわれている。

更にその後、近衛家の支流高山太郎師俊(後、多羅尾と改め)、多羅尾村を領し、江戸時代安政年間同、紀伊那智新宮の大年神(おおとしがみ)(農業の神)お迎えし里宮神社(さとみやじんじゃ)と称し今日に至る。

多羅尾氏 抱き牡丹/藤巴●藤原北家近衛氏流 

『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。

                 浄願寺 http://tempsera.at.webry.info/201204/article_20.html
 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。
 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。

多羅尾氏、勢力を伸張

 
多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。

 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 
多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。

 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

家康の伊賀超え

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康また非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。

栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、
柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。

 この長政軍の前に立ちはだかったのは多羅尾光俊で、四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。
 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。
 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。

 多羅尾公民館(市民センター)に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

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小池城 近江国(甲賀・甲南)

2016年02月08日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町下馬杉字小池 map:http://yahoo.jp/nzxhsQ

区 分:丘陵城

遺 構:土塁・曲郭・堀切

築城年:室町期

築城者:馬杉丹後守か?

廃 城:元亀年間 

標 高:235m  比高差:35m

目標地:下馬杉バス停

駐車場:バス停の空きスペースに路上駐車

訪城日:2016.2.8

 

お城の概要

小池城は、谷出城の南東100mに位置にあり集落側に突き出した。

下馬杉バス停から小池地区の西端曲廓は梅・茶園から登城・・・藪漕ぎして北へ、東の土段上は物見櫓か、西下に曲廓がある。堀切を回り込み曲廓が2つ(共に墓地)、東端の主郭背後土塁へ北側から、戻って・・主郭・・集落へ

下馬杉集落背後の丘陵先端に谷出城・西出城があり背後と側面にL字で土塁・堀切。その背後の土塁から、尾根筋に郭がある、藪漕ぎすると曲廓に!。また、谷出城、南東側の別丘陵に小池城がある。この三つの城は一帯とした城と考えられます。

 歴 史

 在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

下馬杉・島神社・・・社伝によれば当神社は延徳二年四月に安芸の厳島神社の御分霊を勧請し時の領主馬杉丹後守が氏神として奉祀す。安永八年正月災害に依り破損甚しく同年六月改築し現在に至っている。

 

墓地が続きます

いちばん東の主郭へ

獣害ヘンスから集落へ

 

   小池城・・・遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、

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旧東海道の「車石」、解体の石垣から発見  

2016年02月08日 | 遺蹟

旧東海道の「車石」、解体の石垣から発見  JR大津駅西側

石垣に再利用された車石(中央下付近)。石の中央が湾曲して窪んでいる=市提供

 大津市春日町のJR大津駅西側の区画整理事業現場でこのほど、解体した石垣の中から江戸-明治期に旧東海道に敷かれた「車石」が見つかった。米俵などを載せた牛車の往来をスムーズにするために江戸期に道に敷かれたもので、新たに発見されるのは珍しいという。確認した市民グループ「車石・車道研究会」の久保孝事務局長(67)は「大津の街の繁栄を支えた物流の要で、貴重な資料」と話している。

 発見された車石は7個で、一辺が30~60センチほどの花こう岩。牛車の木製車輪が何度も通ったため、それぞれ数ミリ~7センチほどの溝が刻まれた跡がある。

 今回は、市大津駅西地区区画整理事務所の山本聡所長(58)が石垣に溝のついた石が使われているのを見つけ、研究会に連絡してわかった。山本所長は昨秋、車石のフィールドワークに参加していたため、「民家の石積に転用される例を知っていたので気付けた」と振り返る。

 車石は大津と京都を結ぶ旧東海道などに敷かれ、馬車の利用が進んだ明治初期に撤去された。発見された場所は、当時の牛車のルート沿いにあり、撤去後に車石を割って石垣に転用したと考えられるという。

 車石は港町、宿場町として栄えた「大津百町」時代の歴史資料であるため、市は「郷土を物語る品として発見現場付近での展示を検討したい」としている。

参考資料:京都新聞

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山口陣屋(山口館) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月07日 | 陣屋

陣屋跡に『山口陣屋跡』碑建つ

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮小字西堂坊 map:http://yahoo.jp/q2QKhA

別 称:山口館

区 分:陣屋

現 状:果樹畑

築城期:江戸期

築城者:山口氏

標 高:300m  比高差:ー

遺 構:基壇・空堀・切岸・腰巻石垣・曲廓・城跡碑

目 標:国道307号線沿い八坂神社

駐車場:国道307号線沿い八坂神社

訪城日:2016.2.5

お城の概要

 山口陣屋は山口氏の菩提寺である徳源寺の北西100m程の所に築かれていた。 現状は畑となっており、遺構には碑建つ、一段高く方形の土壇があり前方に小段が付いている。国道の反対側にある八坂神社は、寛永11年(1634年)に山口佐平太が社殿を創始し、元禄13年(1700年)に山口藤左衛門が社殿を再建の碑ある。

信楽町下朝宮集落の北、経塚山の山麓に位置している。
遺構は、山麓部を削り込んで台地とし造成した25m四方の区画を設け山側以外の三方を切岸とし、裾部に高さ1~2mの石垣を積み補強している。北西側には巾7mの谷状地形が認められ空堀跡とされる。陣屋の周辺には、山口氏の菩提寺である徳源寺や寛永11年(1634)に光正が社殿を創建した八坂神社が現存し、陣屋を中心に形成された集落形態が今も覗える。

歴 史

初代山口籐左衛門光英源助は朝宮城主として以来8代まで陣屋として存在していた。山口家が朝宮城領主として8代目まで陣屋として存在していた。多羅尾氏と親族である旗本山口氏の陣屋跡である。

天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康もまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。
菩提寺 徳源寺

やまいの看板の見える、畦道正面が陣屋跡

信楽川の八坂橋

八坂神社

滋賀県甲賀市信楽町下朝宮341

由緒書

八坂神社前の駐車可

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

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神山(こうやま)城() 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月06日 | 丘陵城

西側の土塁

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町神山字城山 mao:http://yahoo.jp/rEdi2l

別 称:甲山城

現 状:グランド

区 分:丘陵城

築城期:南北朝期

築城者:神山氏

標 高:310m  比高差20m

目標地:県道422号線の神山信号・神山会館

駐車場:グランド横空地

お城の概要

神山城は神山会館の東側にある通称「城山」と呼ばれる丘陵の北西端に築かれている。大戸川と南川は合流する。神山集落を見下ろす小高い丘に築かれ、現在はグランドとなっている。比高20m程の丘陵で、南西側にL字に土塁が残っている。以外はグラウンドの造成により破壊された。

付近には『木戸口』『城山』の城郭関連地名が残る。

 この土塁から推測するに、伊賀・甲賀で多く見られる単郭方形の縄張りを城であった思われるが、南土塁の下に1段低くなった副曲廓はある。東側の括れは堀か?北側は南川を堀に切岸状である。

西麓の県道側から車道が山上まで通じている。

歴 史

甲山(こうやま)城(信楽町神山)=神山城

建武4年(1334)4月「小佐治右衛門三郎基氏軍忠状」「佐治文書」には、

 「近江国御家人小佐治右衛門三郎基氏・同孫九郎頼氏申候、信楽依蜂起馳参之処、13日、於杣野河宮付御手、自伊賀槙山路責人之処、自信楽東山相向御敵大勢之間、自同晩□(影)到終夜合戦、及太刀打之間、凡捨身命責戦、家人源三郎討死仕華、同14日、信楽上郷自甲山東口始、切破数十ヶ所木戸逆木、焼払城郭華」とある

築城年代は定かではないが神山氏によって築かれた

南北朝の動乱

 元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
 建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。

これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
 その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
 足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。

主郭部のグランド

南西の土塁

土塁下の曲廓

 

主郭部の南東部も削平されクランドとなり、その先の尾根続きに林・竹林があるが、・・・約100m先南東に削平地と堀状遺構があるが、城郭遺構では無いようだ。

が、林・竹林も有事の砦として温存していたか?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史 甲賀の城 

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講座 「復原!聚楽第」

2016年02月06日 | 講座

連続講座「秀吉の城最新情報」

 日 時 2016年2月6日(土)13:30~
場 所 安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678)
内 容 「復原!聚楽第」馬瀬智光氏(京都市文化市民局)
定 員 140名
参加費 200円
問合せ:安土城考古博物館 0748-46-2424

参考資料:講演会当日レジュメ

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多羅尾砦 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月06日 | 

お城のデータ

所在地 :甲賀市(旧・甲賀郡)信楽町多羅尾字千茗ヶ谷、和泉垣外 map:http://yahoo.jp/m5CR3A

現 状:森林

区 分:丘城砦

築城期:室町期

築城者:多羅尾氏

遺 構:土塁、虎口、井戸

標 高:520m      比高差:30m

駐車場:多羅尾代官屋敷跡駐車場

訪城日:2016.2.3

お城の概要

お城の概要信楽町多羅尾のうち、上出集落の南方、南から北にのびた丘陵の先端に築かれている。

尾根上を南北に50m程削平し長い曲輪があり、東面の南隅に虎口が開口し、その北に12m程(南と西側は土塁ではなく、内側を削平して削り残したもので、外側は自然地形)土塁を掘り残しいる。丘陵先端部に二段の郭を付帯している。南端のみコの字状に土塁が付いている。階段状に小段が続いている。

西側20m程下方の谷筋に水場が設けられている。 南東隅が開口している。南東へ伸びる尾根は浅い堀切が一条ある。

上出組集会所の南側にある丘陵が城址。南西側の谷間と北側に入口がある。

南西の谷から、直登した。

歴 史

城主は不明であるが、多羅尾氏に関係した城館と考えられている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・甲賀の城・ウィキペディア・江州佐々木南北諸氏帳・

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今郷城(おばん城) 近江国(水口)

2016年02月05日 | 丘陵城

市民活動によって発見された城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)水口町今郷 map:http://yahoo.jp/fMlJzn

別称:おばん城

目標地:丘陵下の新道・・御城山の土山マラソン標識・甲賀市土山 オー・デュ・プール

区 分:丘城 

標 高:215m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・土橋

築城期:室町期

築城者:大野氏か?

駐車場:丘陵にため池の手前に駐車可

訪城日:2016.2.3

お城の概要

東海道土山宿と水口宿の中間【現在では、土山町と水口町の境】の丘陵、城はあった。丘陵の森の中に鉄塔が建つ、北から鉄塔で東に送電線がⅬ字敷かれている。この鉄塔が主郭に建つ!

 丘陵下の県道182号線添い。国道1号線と平行道、水口町今郷と土山町大野の境に丘陵に鉄塔が見えます。この鉄塔が主郭、貯水池の東側が城跡です。

地元の有志が整備しているが、東側の一部が未整備です

お城の歴史

  • 近江興地史略(享保19年3月15日(1734))に、「今郷城 水口地帯となる。井戸、濠残る」とある。
  • 甲賀郡志・・大正15年(1926)6月10日に「城址 大野村大字今郷、大字大野元標より12町を距つる北方字「おばん」の高地にあり。東方なるは東西30間南北25間を有し築堤尚在し高1間半乃至り2間、南隅に2個の古井あり、雑草汚水の中に生じ深さ2尺余あり。北方に濠跡、1間半乃至2間を在す。また西方に方20間の城址あり出丸の如し。その西は断崖にして高さ18間余その下は即ち周濠にして今は耕地となる。南方は総て断崖を削るが如く濠跡は現時溝と相連り田用水となる。東跡は雑樹灌奔業生し西跡は開墾して畑地となす。」と記す。
  • 私たちの今郷・・・昭和55年(1980)9月 今郷の北のおばん、小字の名、姥が淵の高台に東西2地区に分かれて城址があって、東の方は面積二反、高さ2間の築堤がり、西方は一反の広さでありました。だれの城か不明です。元弘・建武(1331~1336)のころ、嶬峨氏の城か、または甲賀武士大野中務入道が永享年間(1429~1441)大野城へ移る前に住んでいた城とも言われています。

 

甲賀郡大野村に大野宮内少輔の宅跡あり大屋敷と云う。宮内少輔は、六角氏に仕う、その子を右近大夫と称す。この大野氏は、甲賀二十一家中、山北九家の一なり。姓氏と家紋 より

ウィキペディアに

大野村(おおのむら)は滋賀県甲賀郡にあった村。現在の甲賀市土山町の西端、野洲川の右岸、国道1号の沿線および水口町今郷にあたる。

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大野村・今郷村・徳原村・前野村・頓宮村・市場村の区域をもって発足。
  • 1955年(昭和30年)4月1日 - 土山町・山内村・鮎河村と合併し、改めて土山町が発足。同日大野村廃止。

「江州佐々木南北諸氏帳」大野城主 大野宮内少輔義宗・

            大野 住 大野助十郎

            大野 住 後信長髄尾州知田郡住 大野佐馬亮

            大野 住 大野左近・・・・とある

今郷好日会(いまごうこうじつかい) : 安全で確実なプロの技 from 2015年4月12日 to their timeline.

おんば城(今郷城)の整備活動
伐倒方向にワイヤーで引張りながら安全第一で伐採する薪割りくらぶTSRさんの技を見てください。

山城の魅力

 かつての近江国(現在の滋賀県)は、東海道や中山道、北陸道など主要な街道が交わり、琵琶湖の水運もあって歴史上たびたび重要な役割を果たしており、「近江を制するものは天下を制す」といわれた。

 城では国宝の天守閣を持つ彦根城(彦根市)や、豪壮な天主があったとされる安土城(近江八幡市)などが注目されがちだが、山の地形を利用して土塁や堀切などを張り巡らせた城郭も独特の魅力がある。築年代や由来もはっきりしないものが多いが、地域の歴史を顧みる上での貴重な“遺産”だ。

 そうした山城跡を、歴史愛好家の住民グループなどが自治体とともに“再発見”に努める動きが県内で活発化している。

散策道などを整備

 「土塁を囲って、柵を置いたらどうだろう」「遊歩道があれば、歩きやすくて多くの人が来てくれるのでは」

 昨年12月中旬、旧東海道が通る県南部の甲賀市水口町今郷の山中で、郷土史研究やまちおこしを手がける住民グループ「今郷好日会」のメンバーらが倒木を切ったり、草刈りをしたりしていた。

 同会は昨年4月、メンバーの1人が所有するこの山林で、高い土塁と深い堀に囲まれた「単核方形」の城館跡を発見した。

 甲賀市内には、こうした城館が約200あるとされるが、行政機関などによる調査でほとんどが発掘しつくされ、「もう新たな城館はない」といわれていた。そんな中での“大発見”。メンバーらは専門家のアドバイスを受けながら調査を続け、遊歩道や柵を設けて観光スポットにしようと整備を進めている。

 甲賀の城館は、甲賀忍者との関わりも指摘されるだけに観光資源としては有望だ。同会の福野憲二事務局長(59)は「地域の宝として全国発信したい」と力を込める。

yd_sankei3.jpg 城館跡の周辺整備を検討する「今郷好日会」のメンバー

動画を再生

 戦国時代(16世紀頃)の城館跡とみられる土塁や堀が、水口町今郷(いまごう)の小高い山の中で発見された。
 方形の土塁などの特徴から、甲賀衆の集落を守るために造られた「今郷城」跡とみられるという。[産経新聞・MSN]

参考資料:甲賀郡志、近江興地志略、私たちの今郷、姓氏と家紋・ウィキペディア・江州佐々木南北諸氏帳・今郷好日会(facebook)・ITmedia ビジネスオンライン > 過疎化の解決に:「近江を制するものは天下を制す」 埋もれた山城を発掘して“地方創生”に (1/3)

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講演 :安土城

2016年02月04日 | 講座

平成28年1月30日(土) 新春夢談義

【会場】安土コミュニティセンター:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4660番地

【講演】「信長にとっての安土 そして安土城」

【講師】小和田哲男氏 (静岡大名誉教授) 公益財団法人日本城郭協会理事長

・無料 ・要予約 ・300人

主催:安土学区まちづくり協議会

  戦国史研究の第一人者で日本城郭協会理事長でもある小和田哲男静岡大学名誉教授を講師に招いた「新春夢談義」が1月30日、安土コミュニティセンター(近江八幡市安土町下豊浦)で開かれた。


「安土遷都」あったかもしれない

 全国に知られた安土城の歴史資産を有する地元の魅力を再発見し、まちづくりに活かそうと安土学区まちづくり協議会が催した。会場の大ホールには約二百五十人が訪れ、講演に耳を傾けた。

 講演の中で小和田氏は、安土は、びわ湖の湖上交通の要所で、京都とは日帰り圏の距離にあり、中京と京阪の両経済圏の中心に位置していたこと、また、信長にとっての勢力関係からもバランスの採れた地理関係だったことが、信長が安土に城を築く要因であったと説き、築城の際に運び込まれた「蛇石」と呼ばれる巨石を山頂へ運搬中、百五十人の人足が亡くなる大惨事があったことをルイス・フロイス(織田信長と親交のあった宣教師)が、手記で記述していることを紹介した。

 城下に家臣を集められたのは、安土城からであることや安土城が焼失した火種は、城下からの飛び火との説があるが、発掘調査で山頂の天主より下の建物や施設は燃えていないことがわかっており、火災の原因はそれではなく、信長の次男、織田信雄(のぶかつ)が火をつけたらしいとルイスの手記に記述があることから「信雄放火説」も考えられるとの見解を示した。

 また、伝二の丸は本丸ではなかったかや、伝本丸跡には、天皇の住まい「清涼殿」と同じ施設があったことから信長は、天皇を安土城に迎え、もしかすると「安土遷都」を考えていたのではないかと、最近の安土城を巡る研究の一端を紹介した。

 武将のうち信長だけは、天主で生活していたが、そうなると信長は天皇を見下すところに住まいすることになる。明智光秀はそうした振る舞いを許せない、強い不満から信長の命を狙ったのかも知れないとの推論も示した。

 最後に、安土はまさに戦国時代や信長を語る上で、象徴的なところであり、大切にしていただきたいと締めくくった。

参考資料:滋賀県城郭分布、講演会当日レジュメ、滋賀報知新聞

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多羅尾代官陣屋跡(信楽(しがらき)陣屋) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月04日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町多羅尾小字古殿 map:http://yahoo.jp/58wuAU

別 称:多羅尾代官所・設楽(しがらき)陣屋・設楽役所

区 分:陣屋

築城期:江戸期…寛永15年(1638年)

築城者:多羅尾光好 多羅尾家1500石(天領世襲代官)

城 主:多羅尾光好・多羅尾光忠・多羅尾光頭・多羅尾光豊・多羅尾光雄・多羅尾光崇・多羅尾氏純・多羅尾純門・多羅尾光弼

遺 構:内桝形虎口、石垣、屋形跡、家臣屋敷跡・井戸・・・現地説明板

標 高:485m 比高差:5m

目標地:多羅尾小学校

駐車城:多羅尾陣屋跡駐車場

訪城日:2016.2.3

お城の概要

多羅尾代官陣屋は上出集落の川の西側にある高台に築かれている。現在の地元で整備中で、概況は非常把握易い。公開日があるようで、この日は勝手に見学させて頂いた、

「表門」と呼ばれる橋の入口に案内板が設置されている。天空の郷 多羅尾ガイドブックも準備されている。

当時の建物は現存していないが、石垣や庭園が残っている。

歴 史

 多羅尾家は天正10年(1582)の本能寺の変に際して堺から伊勢湾へ帰途を急いだ徳川家康の「伊賀越え命からがら本領の三河へ戻る家康を、多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

 寛永15年(1638年)多羅尾光好によって築かれた。 多羅尾氏は近衛経平の庶子高山師俊を祖とし、小川城を居城として設楽(しがらき)一帯に勢力を持った一族である。

 

多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、文禄4年(1595年)に秀次に連座して改易された。その後に徳川家康に召し出されて旗本となった。

 

慶長元年(1596)多羅尾光太の時、1500石拝領。子の光好が寛永15年(1638)に代官を命じられた。そして屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設け、天保10年(1839)の支配地と支配高は近江・伊勢・播磨で55千石であった。家臣は江戸詰9人、信楽詰22人、四日市出張陣屋詰2人。 

菩提寺の小川の大光寺 

 

 

多羅尾代官屋敷跡

 多羅尾に「多羅尾」氏が生まれたのは、正應4年(1291)当時、信楽が藤原氏の一族・近衛氏の荘園だったころに始まります。この地には信楽荘という藤原氏の一族の近衛氏の隠居所があり、当時、左大臣・近衛経平が病弱なため職を辞してこの地に住み、この近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれた男の子・高山太郎が、嘉元元(1303)年、母の里である多羅尾の地名を姓として、多羅尾師俊として改名し武士となり多羅尾家が始まったのです。

その後、この多羅尾家で歴史上名を現したのが多羅尾家14代目の光俊です。光俊は永正11(1514)年多羅尾に生まれ、佐々木六角高頼の配下であったのですが、高頼が死んでからは織田信長に仕えました。
そして家康との出会いは、記載にある「泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。」という、いわゆる本能寺の変の際の家康が「伊賀越えの難」にあったときです。
家康は本能寺の変で自分の身が危ないと察し、堺から急遽三河に急ぎ戻ろうとしたところ、何度も山賊や野武士に襲われ、やっとのことで宇治田原(現在の京都府綴喜郡)までたどり着いたのです。
宇治田原城主であった山田甚助の養子・藤左衛門父子は家康一行を厚くもてなす一方、実家の父・多羅尾城主に連絡し、光俊は二男の光太、三男・光定を迎えに出し、藤左衛門とともに多羅尾城に出迎えたのでした。
その後家康は多羅尾家一行に守られ無事伊勢白子浜に到着し、三河に帰ったのでした。

こうして光俊は天正14年頃には8000石の大豪族となり、秀吉の姉「とも」の長男で、豊臣家の世継ぎになっていた関白大政大臣秀次に光俊の孫娘「お万」が見初められ、秀次に「お万」を側室として差し出したのでした。
こうした中、秀次の素行が荒れだし謀反との噂の中、秀吉はついに秀次に切腹を命じ、四人の若君と一人の姫君、それに側室として仕えていたお万の方を含む34人、計39人を処刑したのでした。
そして光俊はじめ多羅尾家一族は秀次との関係から、本領、領地すべてを没収され伊賀国に隠れるような生活を強いられたのでした。

秀吉が亡くなり家康の天下となると、家康は早速光俊をはじめ一族の者を信楽に呼び戻し、当座の手当てとしてニ百人扶持を与え、光太を徳川家の旗本として取り立て、関東・上杉討伐に参戦、関が原の合戦で戦功のあった光太に、かつての多羅尾家の領地信楽7000石余を与え、弟の光定、山口藤左衛門なども旗本に取り立て、さらに光俊には隠居料として小川の800石を与え、昔の伊賀越えの難での恩に報いたのでした。
そして時代は下って寛永15年、江戸幕府は多羅尾家16代光好を代官に任命し、信楽・多羅尾村にある光好の屋敷内に代官信楽御陣屋という近畿地方の天領を治める役所を設けさせ、これが明治まで続いた多羅尾代官所の始まりとなったのです。
こうして歴史を追ってみると、多羅尾家がそもそも朝廷に近い近衛家の親類だったことで、「勝軍地蔵尊」像が多羅尾家に存在し、「伊賀越えの難」の際に守り神として家康に渡ったものであろうということが理解できるわけです。

「勝軍地蔵尊」が解決した次の謎であった梅の由緒もわかりましたね。曲垣平九郎盛澄が手折った梅だったのですね。「出世の石段」については後ほど見た後にしておきましょう。

  甲賀(こうか)市の西南端・旧信楽町内の南端の山間を多羅尾地区。 南側は三重県上野市と同県阿山郡島ヶ原村に、西側は京都府相楽郡山城町に接する山また山に囲まれた山村の集落である。
 そんな山の中に、江戸幕府は寛永6年(1629)土地の豪族・多羅尾家の16代城主・光好に、近畿地方の天領を治める「代官信楽御陣屋」(直轄代官)を命じた。 以来、明治維新(1868)まで約240年、支配地を信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領にも広げ、最盛期には11万石、全国42の代官所中の首席となった。 このため最初10人程度の役人の数が40人にも増え、これらの人々が代官所周辺に屋敷を建て、その家来達も近くに住むようになって村は年々家、屋敷が増え、 それに江戸をはじめ各地から来る人達の宿屋や雑貨屋、酒店、魚屋のほか多くの牛馬も飼われ、鍛冶屋も出来るなど城下町らしい賑わいをみせていた。 それが明治維新で代官所の取り壊しとともに、各種の建物も無くなり、昔の山村に戻ってしまった。
 古い歴史の村を訪れる人達の“呼び水”ともなっている。“幻の城下町”ともいわれる多羅尾地区。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、甲賀の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


上磯尾城 近江国(甲南)

2016年02月03日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町磯尾字堂坂 map:http://yahoo.jp/xiTXOC

区分 : 丘陵城

築城期:

築城者:

遺  構 :曲郭(削平地)、土塁、虎口状開口

標 高:240m  比高差:20m

目標地:上磯尾バス停

駐車場:上磯尾バス停

訪城日:2016.131

お城の概要

伊賀国阿山郡(現三重県伊賀市)と境界を接する、甲南町上磯尾集落の西側を丘陵部に立地しているが、城址の丘陵は開削され牧場に。

 伊賀からの侵入の物見廓か? 丘陵の西先端に土塁・物見廓・櫓の削平地が残存して平坦面をっている。その東側は大きく牧場平坦地で、北隅の下部に、北側が土塁にでなっている。街道の物見廓か?磯尾城の出城?支城?。 全体として削平が甘く、切岸は低く、丘陵城郭遺構と断定できていないが。開削が激しく構造も甲賀にはあまり見られないものである。

歴 史

「江戸名所図会」巻之一(天枢之部)愛宕山権現社

同(真福寺)南に並ぶ。 世俗、城州愛宕山に同じといへども、おのづから別なり。 本地仏は勝軍地蔵尊にて、行基大士の作なり。 永く、火災を退けたまふの守護神なり。
[中略]

【家康公伊賀越え】 しかるに、天正十年壬午の夏、台旗泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。 このとき多羅尾四郎右衛門といへる者の宅に、舍らせられける頃、あるじこの像を献ず。 その節、同国磯尾村の沙門神証といふを供せられ、この霊像を持して東国に赴きたまふ。 しかりしより御出陣ごとに、神証をしてこの勝軍地蔵尊を祈念せしめらる。 つひに、慶長八年癸卯の夏、台命によつて同庚子年、石川六郎左衛門尉、当山を闢き、仮に堂宇を造建したまひ、その後、同十五年庚戌、本社を始めことごとく御建立あり。・・・云々」

 地元に何らの伝承もなく、ほとんど削平されておらず、城郭遺構か不明である。

参考資料:遺跡ウォーカー

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