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城郭探訪

yamaziro

徳永城(徳永氏館)   近江国(能登川)

2015年11月06日 | 丘陵城

徳永寿昌法印の石墓碑

 

お城の概要

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)北須田町 map:http://yahoo.jp/eqv4qz

現 状:山林(山麓館・居城)

区 分:居城

築城期:織豊期

築城者:徳本氏

遺 構:郭・石垣・土塁・空堀・竪堀・城道・墓碑

目標地:きぬがさトンネル北口

駐車場:きぬがさトンネル北口山麓道(旧道)に路上駐車

訪城日:2015.11.6

ここから山に

お城の概要

安土から能登川への朝鮮人街道に面した北須田(当時は徳永村)の丘陵に仮称(徳永城は位置する。

東の「伊庭御殿」から伊庭山山麓を西に進むと「きぬがさトンネル北口」の手前に民家とソーラー発電所の間を入る。

獣害フェンスがあるが、一ケ所針金で止めてあるが入れる。山には入ればすぐ平削地や石垣・基壇・土塁・川(竪堀)・・・・取り合えず、上に登る、城内は綺麗で、防衛面では不十分であるが、城郭遺構は、はっきり見える。

 晩年には神仏を敬う篤く、仏道にはいり「法印」と称しました。新造・修理した社寺も多く、地元の大浜神社・望湖神社や岐阜赤坂の明星輪寺(虚空蔵)・岐阜の高洲「の天神社・養老寺」などがある。

城頂部に徳永寿昌法印の石墓碑が建つ。

お城の歴史

 織豊後期には、『淡海国木間攫』の

 「神崎郡 猪子村 ・天満天陣宮 当村・佐野村・佐生村・三ヶ村生土神ナリ、徳永法印勧請ナリ、 

  追加   徳永ハ伊庭家ノ従者ニテ、伊庭家断絶ノ後屋形ヘ出、石見守ニ至テ柴田(長浜城主=柴田勝豊)ニ属ス、柴田病死後太閤ヘ被召出立身、式部卿法印寿昌ト号シ、五万五千石ニ至ル、左馬助濃州高須ニテ没落ス、孫流江府ニ有ト云」と記す。

寿昌は、『寛政重修諸家譜』では、「ながまさ」としているが、高柳光寿・松平年一の『戦国人名辞典』では「ひろまさ」としており、当時、寿昌がなんとよばれていたかは明らかではない。

寿昌は、『寛政重修諸家譜』では、「ながまさ」としているが、高柳光寿・松平年一の『戦国人名辞典』では「ひろまさ」としており、当時、寿昌がなんと呼

 寿昌については『藩翰譜』に、「石見入道寿昌は、初め越前の守護柴田勝家が猶子伊賀守勝豊の家の老なり。勝家と勝豊とは年ごろ其の間快からず。羽柴・柴田の軍起こるに及んで、秀吉、石見守等を召して、其の主人伊賀守が許に使として、味方に与すべきよしを云い送らる。勝豊、頓みて義父勝家に背きて秀吉に心を通ず(中略)。

石見守、この後秀吉の御家人となされ、美濃国松木の城を領してけり」とあり、美濃国松木島の内において二万石を与えられ、高松城の城主となっている。
 関ヶ原の戦いは東軍に属し、美濃国の駒野城などを攻め、戦後二万余石を加増され、美濃高須城主となった。子昌重も父とともに関ヶ原の合戦に従軍、慶長十年(1605)秀忠の将軍宣下に供奉し、同十七年父の跡を受けて、高須五万六百石余の城主となった。大坂の陣にも従軍、元和三年(1617)新田を併せて五万三千七百石余を領し、寛永三年(1626)家光の上洛にも供奉した。
 しかし、寛永五年二月、前に命じられていた大坂城石垣普請助役工事の遅滞を理由に除封され、出羽庄内酒井家にお預けの身となり、所領は没収され配所で没した。長男昌勝も父に連座して、越後新発田藩主溝口家に預けられたが、のちに赦され、二千俵を与えられた。子孫は二千二百石の旗本として存続した。

徳永 寿昌(とくなが ながまさ)は、

 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。

 徳永氏の祖は、『寛政重修諸家譜』によれば、藤原北家頼通流という。「いまの呈譜に、関白頼通の四代の孫少納言家隆の男美作守昌隆の後胤式部律師興昌がとき乱をさけ、近江国徳永村に閑居し、これより徳永をもって家号とす。土佐守昌利は昌隆二十四代の孫なりといふ」とある。
 『近江輿地誌略』には、「寿昌は神崎郡の住人、其の先は予州河野が十八家の一也。中頃、当国に徒りて、佐々木家に仕ふ」とみえて、まったく異なる系譜を記しているのである。
神崎郡徳永村であった。寿昌の父昌利より以前の経歴については諸書記すところはない。 

生涯 徳永寿昌(1549―1612)

昌時、権之進、石見守、式部卿法印。近江国徳永村、美濃、尾張松本など出身には諸説がある。土佐守昌利の子。はじめ柴田勝家の養子勝豊に仕える。賤ヶ岳の合戦直前に勝豊が羽柴秀吉方に寝返ったため、羽柴勢に加わって柴田勝家と戦う。戦後、秀吉に仕えて美濃国高松城主となり、三万石を領す。秀吉が没した直後、朝鮮に渡った日本軍撤収のため渡海。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いがおこると徳川家康に味方し、戦後、二万石を加増され高州城に移る。有馬則頼、金森素玄とともに「三法師」と称せられた。

美濃、尾張、近江など出身地は諸説あり、はっきりしない。

はじめ柴田勝家の養子の柴田勝豊に仕えた。徳

柴田氏と羽柴氏が争った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、直前に勝豊が羽柴秀吉方に下ったため、羽柴方として参戦した。その直後に勝豊が病死したため秀吉の家臣となり、後に豊臣秀次付の家老として美濃国松ノ木城に3万石の所領を与えられた。秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る

 能登川の町の地割は朝鮮街道添いに間口5間(約9m)、奥行10間(約18m)の屋敷割が整然とされ、さらに街道から7~8m奥に街道と並行して幅30~50cmの水路を堀り、伊庭川から分水した水を流し生活用水としている。計画的な街並み作りを徳永寿昌が領主時に実施した。

今も徳永寿昌法印の業績たたえ法要が行われている。

秀次の失脚事件には連座せず、むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる。

秀次の処分の際には秀次の妻子を自らの屋敷に捕縛・軟禁する役割を務めた。

慶長3年(1598年)、秀吉の死後に文禄・慶長の役の幕引きをはかる五大老の徳川家康の命令で、宮城豊盛や徳川家臣の山本重成とともに朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めた。

 

下城します。

郭の石列土橋

■参考略系図 詳細系図

 

 

 

 

 

 

 

観音寺城(繖山)へ安土城(遠景)

駐車場を「きぬがさトンネル」の交差、空地

徳永城(遠景)

参考資料:ふるさと百科「能登川てんこもり」、東近江市史・・能登川の歴史、Wikipedia - ウィキペディア、淡海国木間攫

       本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


西川嘉右衛門(かえもん)家 特別公開

2015年11月06日 | 番外編

『西川嘉右衛門(かえもん)家 特別公開』

滋賀県立琵琶湖博物館やNPO法人日本ビオトープ協会などが加盟する滋賀県ミュージアム活性化推進委員会では、文化庁の「平成27年度 地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業」の「地域文化を創造する人材育成」事業の一つとして、日本ビオトープ協会に事務局を置き、滋賀県立大学と協力して、近江八幡市円山町の西川嘉右衛門家の調査を行っていますが、建物に関する調査の終了を受けて、その成果とともに建物の一部を特別に公開します。

西川嘉右衛門家は、織田信長の時代の古文書も伝わる旧家で、代々ヨシの卸売業を営まれており、西の湖周辺の文化を語る上で欠かせない文化財ですが、平成18年に全国第1号として「近江八幡の水郷」が重要文化的景観の選定を受けたときに未調査となっていました。

そこで、滋賀県ミュージアム活性化推進委員会では、滋賀県立大学の濱崎一志先生や学生の皆さんと共働して、その建築物の調査を行いました。その結果、水郷地帯に立地する円山の集落の中で西川嘉右衛門家が特異な位置にあることを確認することができました。この成果を広く公開したいと思います。是非皆さまお立ち寄りください。 

開催時期 2015年11月6日(金曜日)~8日(日曜日)

開催時間 10時~16時

実施場所 近江八幡市円山町188 西川嘉右衛門家

申込・観覧料 無料。事前申し込み不要

公開内容 主屋(一部)・作業小屋・蔵(一部)など

西川家敷地配置図・西川家敷地断面図・西川家主屋及び新家図など

調査内容のお問い合わせ先 滋賀県立大学 人間文化学部 濱崎一志研究室 0749-28-8422

事業内容のお問い合わせ先 滋賀県立琵琶湖博物館 橋本道範 077-568-4812

当日のお問い合わせ先 西川嘉武さん 090-2358-1333

PDF 『西川嘉右衛門(かえもん)家 特別公開』チラシ(PDF:660KB)

 

 

 

 

 

 

折角なので、円山町の「海運寺」へ    滋賀県近江八幡市円山町80


多羅尾氏の代官陣屋跡

2015年11月06日 | 陣屋

江戸時代の代官・多羅尾氏に脚光 滋賀信楽、住民が保存会結成

多羅尾代官陣屋入り口の正面石垣奥に明治30年代まであった番小屋跡を示す岩田会長(甲賀市信楽町多羅尾)

 徳川幕府から信楽の代官に任命され、幕末まで続いた多羅尾氏の代官陣屋跡(滋賀県甲賀市信楽町多羅尾)を観光スポットにしようと、地元住民らが保存会を結成し、10月末から一般公開を始めた。市が地権者と活用に関する協定を結んだのを機に、整備に取り組んだ岩田孝之会長(72)は「ボランティアガイドも養成し、村おこしにもつなげたい」と夢を膨らませている。

 多羅尾氏は、1582(天正10)年の「本能寺の変」で窮地に立った徳川家康が岡崎城(愛知県岡崎市)に逃げ帰った「伊賀越え」で、伊賀甲賀の道中警備をしたことで知られる。その功績で旗本に取り立てられ、信楽で代官に任命され、近江、河内、伊勢、大和の幕府直轄領を治めた。

 代官陣屋跡は広さ1・8ヘクタール。建物は残っていないが、精巧な切石積みの石垣や、江戸後期に作られた庭園などがある。主屋正面玄関床下には信楽焼の甕(かめ)二つが埋められており、水琴窟の原理で人が上を歩くと音が聞こえるようにした音響装置とみられる。同様のものは北海道函館市の奉行所跡に確認されているだけという。

 私有地のためこれまで非公開だった。今年4月に住民約80人が同跡保存会をつくり、県や市の補助金を利用して、うっそうと茂っていた雑木や古木を切り、坂道には階段を手作りし、散策できるようにした。陣屋跡の歴史や見どころを書いたガイドブック(A4判、8ページ)も市教委の指導で作成した。

 今後も整備を拡大しながら、春と秋限定の公開を続ける予定。今秋の公開は29日まで。午前9時~午後4時。見学は無料。問い合わせは多羅尾地域市民センターTEL0748(85)0001。

資料提供:京都新聞 2015.11.6


戦国女性の足跡 お市を巡る男たち

2015年11月06日 | 郷土の偉人

=武将に操られた生涯 安土城考古博物館でトピック展=

大変な美人としても知られたお市の肖像画

◇近江八幡
 織田信長の妹だった故に、戦国時代の悲劇のヒロインとして知られる「お市」の生涯を紹介するトピック展「お市を巡る男たち」が県立安土城考古博物館で開かれている。二十九日まで。
 天下統一の戦乱が繰り広げられた戦国の世で、お市は、武将たちの政略や政争に巻き込まれた代表的な女性。
 その男たちに操られた人生とはどんな苦難があったのか。輿(こし)入れ、夫との死別の繰り返しの中で、戦国の女性としての生きざまを歴史資料をもとに紹介している。
 お市は、本当に信長の妹であったのか、諸説ある中で、信長の政略で浅井家に嫁ぎ、長政との間に授かった「茶々、初、江」の三姉妹を育てた。信長と敵対する関係に転じた時も長政と「小谷城」の落城ぎりぎりまで籠城。長政亡き後は、柴田勝家と再婚したが、羽柴秀吉との戦いに破れ、自決して世を去った。秀吉がお市に好意を抱く場面がドラマに描かれることがあるが、真相は不明。
 今回の展示では、お市とその取り巻く武将との人間関係を中心に、乱世を生き抜いた女性の生涯を分かりやすく紹介している。

情報:滋賀新聞  


六地蔵城  近江の国(栗東)

2015年11月05日 | 平城

  

お城のデータ

 所在地:栗東市六地蔵町 map:http://yahoo.jp/o9C2Uj

現 状:寺院・竹藪

築城期:南北朝期 

築城者: 菅沼吉郎右衛門

城 主:高野甲斐守(佐々木六角臣)・林土佐守(青木氏の臣)

区 分:平城

遺 構:主郭・郭・土塁・空堀

標 高:ー m 比高差:ーm

駐車場:無し(路上駐車)

目標地:福正寺:滋賀県 栗東市 六地蔵574

訪城日:2015.11.5

お城の概要

 滋賀県中世城郭分布図調査には、旧東海道添いの「福正寺」がその所在地され、かつては本丸・二の丸の地名が残る存在した。境内の南西側には、堀・土塁が残るとある。

 福正寺の北に六地蔵地蔵尊がある。その境内に土塁が残る。また竹藪の中には低土塁の一部を見ることができる。

土塁2mを図る。

竹藪(ゲットボール場に竹藪の扉がある)は、屋敷跡か?(未整備のため、全体は把握出来ない)

 堀址か?(用水路)

竹藪ないの低土塁

 

歴 史

『江州佐々木南北諸士帳』に「栗太郡六地蔵 住 菅沼吉郎右衛門」と記す

南北朝の頃、六角氏の臣高野甲斐守が入城しており、永正年間に高野甲斐守が窪江城に移ってのちは、青地氏の臣林土佐守が入城していた。

永禄十一年に廃されたが、本丸・二の丸の地名が残る。

旧東海道 六地蔵の町並み浄玖寺(背後に、「織田信長の多喜山城(日向山)」が見える) 

東海道・中山道は交通の要衝栗東

昔から、交通の要所として栄えてきた栗東は、江戸時代に入り、整備された東海道・中山道に挟まれた交通の要衝として、一段と賑やかになりました。

近江地方における東海道は、伊勢参宮道としての要素を兼ね備え、「伊勢道」とも言われていました。

 
 

梅ノ木立場(うめのきたてば)…宿場の中間地点に設置された休憩所

 東海道の石部宿(湖南市)と草津宿(草津市)の約中間点に、「梅ノ木立場(うめのきたてば)」(現在の栗東市六地蔵あたり)がありました。立場とは、幕府公用の馬や駕籠などを止めて休息する所で、ちょうど宿場と宿場の中間地点に設置される事が多かったようです。 

和中散屋 (旅人の道中薬”和中散”を商う薬屋)

 福正寺のそばにある和中散本舗は江戸時代に草津宿・石部宿の中間にあって、東海道の休憩所の役割を持っていた住宅で、道中薬「和中散」という薬を売っていた大角弥右衛門の店鋪兼住宅です。

徳川家康が永原御殿(野洲市)で腹痛をおこした際、この薬を服用してすぐに治ったことから、有名になったとされます。建物は、寛永年間(1624~44年)の建物がそのまま残っていて重要文化財であり、庭園は小堀遠州作といわれ、国史跡です。

また、旅人の休憩等に利用された「間の宿」でもあり、旅人に薬を売るため、梅ノ木に和中散屋が生まれました。

  和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。

 また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。

  和中散を商う薬屋は最も多い時には7,8軒あり、宝永年間(1704~1711)には、すでに東海道名物として全国的に有名になっていたようで、「是斎(ぜさい)」・「如斎(じょさい)」・「定斎(じょうさい)」・「是済(ぜさい)」などの屋号を名乗り、互いに競い合っていました。

大角家 (和中散屋・小休屋)…多くの大名が休憩に立ち寄った

 和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。

 

 小休屋として賑わっていた大角家(おおすみけ)に、安永2年5月4日、雲洲様と言われていた松江藩(島根県)の藩主松平治郷が、参勤交代の途中、旅程が1日延びたために、草津宿・石部宿に宿泊できなくなり、急遽大角家に宿泊の依頼があり、村人総出で対応したと記録が残っています。 文政9年(1826)、ドイツの医学者でオランダ商館の医員として長崎に来ていたシーポルトは、江戸へ向う途中、大角家に立ち寄り、当主弥右衛門との話がはずみ、薬を参考資料として貰い受け、周囲の植物を収集して、長崎の出島に送ったとされています。

大角家 (建物…国の重要文化財、池泉鑑賞式庭園)

贅を尽くした玄関や欄間などの建物が国の重要文化財として指定されています。

また、池泉鑑賞式庭園があり、旅の疲れを癒していたのではないでしょうか。本庭には、築山(芝山)があり、背後には日向山(にっこうやま)が望まれ、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられます。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城、栗東町志、淡海の城他

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


安養寺陣所  近江国(栗東)

2015年11月05日 | 陣所
 安養寺由緒の石碑 
 

お城のデータ

 所在地:栗東市市安養寺88 map:http://yahoo.jp/gqT3uM

現 状:安養寺・山林(八十八霊場)

築城期:奈良時代 天平十二年(740) 

築城者: 良弁僧正が開基

陣所期:室町期

陣 主:足利九代将軍義尚 

区 分:陣所

遺 構:主郭・郭・土塁・空堀

標 高:ー m 比高差:30m

駐車場:安養寺参拝者駐車場

訪城日:2015.11.5

お城の概要

 安養寺城は、奈良時代創建の安養寺を、六角討伐に足利九代将軍義尚が最初に陣所を構えた。栗東市立治田東小学校に燐で名神高速道路が門前の東を走る。

安養寺の境内の山中にはミニ八十八所巡りの石仏は配置され、城郭遺構の低土塁・平削地・大きな空堀が残る。六角討伐に足利九代将軍義尚に従軍した兵士の宿所と想像する。

 

歴 史
 
 足利義尚が最初に陣をおいた安養寺、甲賀衆(甲賀忍者)はこの地を夜襲したと伝えられる。その後、義尚は永正寺に本陣を移し、同地において客死した。
安養寺の境内は高速道路に寸断され、永正寺は土塁がわずかに残るばかりで、過ぎ去った歴史の軌跡をたどる難しさを実感する。
 
 
『長興宿羅記』に
・鈎陣所・・・長享元年10月4日の条「令著陣同国鈎安養寺給」
・・・・・・・・・・長享元年10月28日の条「今日自江州陣上洛人語日、将軍御陣所被改鈎安養寺、令移同所真法館(山法師也)給、被館狭少之間、仮陣所一」宇被新造、伊?奉公外様軍勢、各改陣所参候御近辺云々」とある。
 
   
表参道
表山門県指定庭園の説明書 
 
山門を入ると左では、空堀が100m
薬師堂外観 
歴史
     
安養寺の歴史  

歴史1 (安養寺山の麓に、良弁によって開基)

 安養寺山の麓に、聖武天皇の勅願により、東大寺の建立に尽力し、金勝寺を開基した良弁によって開基されました。

当初は法相宗に属していましたが、承和元年(834)太政大臣藤原良房の本願により、弘法大師こと空海が中興開基され、以後真言宗大本山大覚寺派の名刹として知られています。 

歴史2 (焼失と再建)

 安養寺には、弘法大師が作ったとされる愛染明王や大黒天などが残っています。
皇室の帰依も厚く、弘長3年(1262)に亀山天皇が諸堂を再建したと寺伝に記されています。その後、火災に遭いましたが、嘉元2年(1304)に復興しました。

 長享元年(1487)、室町幕府と対立し、近江で力を誇っていた六角高頼氏を討伐に出陣した第9代将軍足利義尚が、栗東で最初に陣を構えたのが、安養寺でした。

安養寺に入った義尚は、本格的に甲賀郡内の六角勢掃討に着手しましたが、長期化を予想した義尚は、手狭な安養寺を出て、上鈎にある永正寺に陣を置きました。この戦いの時に、六角勢の兵火にかかり、十二ヶ院などの建造物が焼失しました。 大永年間(1521~1528)に再興されましたが、再び戦乱に呑みこまれてしまいます

 元亀元年(1570)8月9日、織田信長が佐々木氏の残党と戦ったその兵火を浴びて、本堂・僧房などがことごとく焼け落ちました。 

歴史3 (再興)

 貞享元年(1684)に京都から慧堅戒山が入山し再興し、正徳元年(1711)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣に末永く天下安全の祈祷を修する旨命じられました

東方山安養寺の略縁起
  和暦(西暦)          内容
天平十二年(740) ・聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基。
         ・本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。
承和元年(834)  ・弘法大師空海が中興、真言宗に改宗。伽藍造立の本願は太政大臣藤原良房。
弘長三年( 1263) ・亀山天皇は勅願所とされ七堂伽藍をはじめ二十余の僧坊の並ぶ大伽藍を建立、弘法大師作の愛染明王を下賜される。
長享元年(1487) ・足利九代将軍義尚が佐々木(六角)高頼討伐のため、陣所とする。
         ・しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興。
元亀元年(1570) ・織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊等の一部を除いて、すべて焼失する。
貞享元年(1684) ・戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。
享保三年(1718) ・後西院の皇女宝鏡寺理豊宮より、
          後西院天皇真筆の「東方山」・「安養寺」・「放光院」の山号・寺号・院号の三額を賜る。
 
参考資料:『湖国と文化』2015年秋近江の古戦場、安養寺HP、滋賀県中世城郭分布調査

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


長浜市指定有形文化財(書籍) 「下坂家文書 697点」

2015年11月04日 | 文化財

 ・指定年月日:平成8年9月1日

 下坂家は、坂田郡下坂中村(長浜市下坂中町)に居住した湖北の有力な地侍(土豪)です。その活動は、南北朝時代から確認でき、足利幕府方(北朝)の武将として守護京極氏の軍事指揮下に入って活躍していたことが知られます。

 また、戦国時代には、一族の「左馬助」家は京極氏の家臣として、一方「四郎三郎」家は浅井氏の家臣として働いています。

四郎三郎は織田信長の小谷城攻めにあっても籠城し、その功績に対して浅井長政からは領地を与えられています。

江戸時代は地域の「郷士」的身分として、明治以降の近代は名望家として、地域では「幸内さん」と呼ばれ親しまれた家でもあります。
写真:浅井長政書状 下坂四郎三郎宛

 この下坂家に伝来した「下坂家文書」は、巻子(巻物)11巻、一枚もの302通、冊子143冊、絵図9枚などから構成されており、南北朝時代から明治初期の下坂家や地域の情勢を読み解くことができます。特に貴重なのは、冒頭に記した中世(南北朝時代~戦国時代)の古文書が収められた「甲巻」です。

この中には、戦国大名浅井氏三代の文書が、初代亮政の文書5通、二代久政の文書3通、先ほど記した三代長政の文書1通が存在します。このように合計9通にのぼる浅井氏当主文書が残るのは、同氏領国下の地侍伝来文書としては最も多く、本文書群の価値を高めています。

 その他、江戸時代の文書として、湖北の「郷士」間や彦根藩士らとの往復書簡、田村山の麓にあった只越社(現在は忍海神社に合祀)をめぐる裁判に関する古文書、さらに菩提寺・不断光院の経営に関する文書を収めています。また、下坂家から出た幕末の志士・文人として知られる板倉槐堂・江馬天江兄弟と、下坂家当主(2人の兄に当たる)高凱との往復書簡も多数現存し、解明が進んでいない幕末の長浜を考える際の基本史料とも言えます。

 昨年末、下坂家の当主であられる下坂幸正氏のご厚意で、この貴重な文書群を市へご寄贈いただきました。保管を担当します長浜城歴史博物館では、地域の魅力発信の題材として、有効に活用しつつ、永く保存していきたいと考えています。

   (『広報ながはま』平成27年1月1日号より)


長浜城(湖中城址)、近くの琵琶湖湖底で

2015年11月04日 | 平城

琵琶湖湖底に江戸期建物跡 水中遺跡で初、地震で水没か

2015年11月4日 18時35分

  滋賀県長浜市公園町の豊公園沖の琵琶湖底から、江戸時代後期とみられる木造建築の跡が見つかったと、滋賀県立大人間文化学研究科博士後期課程の中川永さん(27)らのグループが4日発表した。グループによると、長浜城(同県長浜市)近くの琵琶湖の湖底で、立ったままの柱8本や石積みが見つかったと発表した。水中遺跡で木造建築の遺構が分かる柱の発見は極めて珍しいという。地震で水没したとみられ、中川さんは「地震の以前は長浜城の敷地がさらに広かったことを示す遺構」としている。

 19世紀初頭に建てられた鎮守社とみられ、1819年の文政近江地震で湖底に沈んだ可能性があるという。県立大大学院生で、同研究会の中川永代表(27)は「液状化現象で、土地が地滑りしたか、沈没したのだろう」と推測している。

 付近一帯は長浜城遺跡と呼ばれており、長浜城歴史博物館となっている長浜城がある。建物跡は沖合約100メートル、水深約1・8メートルの湖底で見つかった。

写真は、2014年夏、滋賀県長浜市沖の琵琶湖底で発見された社の建物部分と見られる柱(右)とひさし部分と見られる柱=滋賀県立大琵琶湖水中考古学研究会提供
 
遺構は、2014年8月、湖岸にある「太閤井戸跡」から西約100m、水深1.8m地点で発見。幅1.8m、奥行き2.1mあり、高さ13cm~65cmの柱8本を確認した。

 8本のうち4本は建物の四隅の柱、2本はひさしの柱とみられ、形状などから建物は社のようなものとしている。放射性炭素年代測定で柱の木は1800年代初頭に伐採されたと分かった。

 中川さんによると、江戸期の琵琶湖岸の標高は約85m。発見地点が82.6mであることから、1819年の「文政近江地震」で水没したと推定した。

 長浜城跡は現在の豊公園。同城は1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後は廃城となり、その後は田畑になったと伝わる。中川さんは「今回の調査で現在地よりはるか沖合に長浜城の敷地が広がっていたと考えられる」としている。

 琵琶湖底の遺跡を調査してきた林博通・県立大名誉教授は「柱がそのままの状態で発見されたのは水中遺跡研究史上、画期的」と話し、日本の城郭に詳しい県立大の中井均教授は「長浜城の敷地が水没したことが明らかとなった。今後の調査に期待できる」としている。

 14、15の両日午前10時から彦根市八坂町の県立大で報告会を行う。

岐阜新聞:2015年11月04日 18:35・京都新聞2015年11月04日 23時00分
 

安土考古博物館 開館23周年記念展示

2015年11月04日 | 番外編

開館23周年記念展示

昭和天皇の来館 企画展の冊子

~これまでの歩み一覧~

安土城・観音寺城のジオラ

    博物館から安土城祉(遠望)安土山・繖山(古地図) 安土城図江州安土古城図安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した(伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物)

 

滋賀県立安土城考古博物館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
Japanese Map symbol (Museum) w.svg 安土城考古博物館
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施設情報
正式名称 滋賀県立安土城考古博物館
前身 滋賀県立近江風土記丘資料館
専門分野 考古学
事業主体 滋賀県
管理運営 滋賀県
年運営費 滋賀県
延床面積 5,846m²
開館 午前9時
閉館

午後5時

・ただし入館は午後4時30分まで

所在地 521-1311
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
位置 http://yahoo.jp/mblQrf
 
 

滋賀県立安土城考古博物館(しがけんりつあづちじょうこうこはくぶつかん)は滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にある城郭と考古を主たるテーマとする登録博物館。1992年に開館した。

歴史公園「近江風土記の丘」の中心地である文芸の郷に、その構成要素である特別史跡安土城跡をはじめ、観音寺城跡、瓢箪山古墳、大中の湖南遺跡(だいなかのこみなみいせき)の4件の国の史跡と文化財建造物群の調査研究と保存、普及活動を担う拠点施設として設立された。1970年に開設された滋賀県立近江風土記の丘資料館の後身にあたる。特別展、企画展、博物館講座などの催しもさかんである。

 


講演; 中世惣村と菅浦の景観

2015年11月04日 | 講座

 史料館新営20周年記念特別展
 

重要文化財菅浦文書を読み解く




 日  時:10月13日(火)~11月20日(金)
        ※土・日・祝日休館
        (ただし、10月31日、11月7・8日は開館します。)
 開館時間:9時30分~16時30分
 場  所:滋賀大学経済学部附属史料館1階展示室

  経済学部附属史料館では平成24年度以来、科学研究費助成事業「中・ 近世「菅浦文書」の総合的調査・公開と共同研究-中・近世村落像の再検討」の採択を受けて、当館に寄託されている菅浦文書の再調査を実施してまいりました。今年はその事業の最終年度にあたり、また史料館が独立棟として開館してから20年目にもなります。
 そこで、これまでの調査と研究成果の公表を兼ねて、史料館新営20周年記念特別展「重要文化財菅浦文書を読み解く」を開催いたします。当館で菅浦文書を一般公開するのは平成17年以来であり、実に10年ぶりとなります。今回の展示では、「菅浦の生活空間と生業」「菅浦と浅井氏」「菅浦文書の花押・略押」「湖(うみ)と山の権利をめぐって」といったコーナーを設けて、中世菅浦の多彩な世界に迫ります。菅浦文書のうち21点を一挙に公開しますので、お見逃しなきよう、ぜひご観覧にお越し下さい。


 菅浦与大浦下荘堺絵図
菅浦与大浦下荘堺絵図(菅浦文書722号)
長浜市西浅井町菅浦区寄託 


 現在の菅浦(遠景)
現在の菅浦(遠景) 

 特別展関連講演会

   10月31日(土)13時30分~  於 経済学部第2校舎棟第21講義室
  講演「中世菅浦の景観」       長浜市長浜城歴史博物館館長 太田浩司氏
  シンポジウム「菅浦の歴史と史料を語る」        科研費研究グループ 


共催:科研基盤研究B「中・近世「菅浦文書」の総合的調査・公開と共同研究」
   課題番号(24320127)グループ
後援:長浜市長浜城歴史博物館・(公財)陵水学術後援会

講演「中世菅浦の景観」…長浜市長浜城歴史博物館館長 太田浩司氏

レジュメ

長浜市西浅井町菅浦は、琵琶湖の最北端。深く入り組んだ湖岸沿いに竹生島と葛篭尾崎の先端。標高400mの山々に包まれた菅浦集落。

 集落の入口(西側)には「四足門」と言われる茅葺きの門があり、村の出入りを監視する要害の門、今で言う関所の役目を果たしていた門だ(扉も無いため、集落を守る象徴的な役割)。また別名を「四方門」とも呼ばれ近年までは東西南北(現存するのは東西の二箇所のみ)の集落入口に設置され集落内を明確にしていた。この四足門は菅浦に残された文書から中世後期からすでに存在していたる。

西門をくぐると、淳仁天皇を祭神とする須賀神社がある。この地域には淳仁天皇の伝説が残っている。

菅浦の人々は淳仁天皇の氏子として暮らして来きた。 葛篭(かご)に隠れて舟で乗り…葛篭尾となり、葛篭尾崎と地名になっている。交通手段は船が主で陸の孤島だった、隠れ里。

 菅浦の地には、奈良時代恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で道鏡や孝謙上皇に負け、廃位になった淳仁(じゅんにん)天皇が住んでいたという伝説が残っている。淳仁天皇は、幽閉地で憤死したといわれ、須賀神社の裏山に淳仁天皇の御陵という塚が残っている。菅浦の村に入る東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っている。かつては、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたった(扉も無いため、集落の団結を象徴的な役割)。

また、鎌倉時代から明治時代初めにかけて作られた村落や漁村生活を記した菅浦文書が残されており、菅浦郷土資料館に保存されている。
<重文>菅浦文書1261点、菅浦与大浦下庄堺絵図(須賀神社)

・中世の村落共同体『惣村』の資料でも著名である。

・村人が朝廷へ食物を納める供御人(くごにん)だったことが分かる誓約書、警察権や裁判権を村が所持していたこと示す『村掟』

・特に、隣村の大浦との二世紀渡る日指(ひさし)・諸河(もろこ)の田畑めぐる闘争は、『菅浦文書』の中に多くの訴状資料を残す原因

菅浦は三方山に囲まれ、前面は湖だったので、集落周辺には田畑は無かった。村人は北側の山を越えて約2.3km離れた日指・諸河の谷まで耕作に行っていた。菅浦の北の集落 大浦が日指・諸河を大浦庄内と主張するのに対し、両村の境界がこれらの田畑より北にあり日指・諸河を菅浦庄内と応戦する。

この対立は、村落間の合戦に発展し、それを村人が記録した『合戦記』が現存する。のも同文書の価値を高める。

 菅浦は中世から『惣村』として強固な団結力を持っていた。それを確認できるのが『四足門』である。現在は、西門・東門の2棟のみだが、かつては山から集落に入る2本の道にも、南門・北門にも存在した。

  琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21

波よけの石垣 

 安相寺(長浜市西浅井町菅浦)

概略

浅井長政の子、万菊丸(万寿丸、幾丸、虎千代丸とも)が小谷落城の際、織田信長の追手から逃れるためこの安相寺に匿われたと『布施山温古記』に伝わる。安相寺は福田寺の末寺で、後に万菊丸は伝法院正芸と称し、福田寺の十二世を継いだといわれている。
万菊丸の縁のために福田寺と安相寺は毎年七月に進物を送りあうのを欠かさなかったという。

天嶮の要塞に守られた村

万菊丸は存在自体疑問視される声が強く、なかなか話題に上ることもありません。
しかし、同市湖北町二俣には、万菊丸が逃れるときに守護したという中島左近の子孫が現在され、当時の槍が残されているそうです。
上山田には万寿丸の母と思しき女性(お弁の方)の伝承もあります。
もちろん、これだけ伝承があるなら万寿丸が存在したに違いない!という逆説のあり、いなかったとは言い切れない…
安相寺は、万寿丸を匿うためにこれ以上の場所はない。三方を山にもう一方は湖に守られ、他の集落とは隔絶した菅浦という土地。

須賀神社がある

鳥居から拝殿までは長い参道が続き、その参道の中ほどから先は神域の清浄保持のため土足で立ち入ることが出来ない。もともとは素足で参拝するという村の決まりであったが、今では観光客のことを思ってか、参道の左手に靴箱とスリッパが用意されている。

橋板

講演終了

 滋賀大学…経済学部キャンパス

新営20周年記念特別展「重要文化財菅浦文書を読み解く」を会場

史料館新営20周年記念特別展(冊子) 


クマに注意してください!!(米原市HP)より

2015年11月04日 | 番外編

クマと遭遇しないために

冬眠前の11月の目撃情報が一番多いようです

  1. クマに自分の存在を知らせてください。
    クマは臭覚・聴覚が人より優れており、人の接近をいち早く察知し、人を避けます。ラジオ・笛・鈴などで音を出して行動してください。
  2. クマは明るい場所を避けますので、見通しのよい明るい場所で行動してください。クマの糞、足跡などを見つけたらすぐに引き返すか迂回してください。
  3. 早朝や夕方の外出は特に注意してください。
  4. 人家周辺でも細心の注意をしてください。

それでもクマに遭遇してしまったら

  1. 子グマに出会った場合、そっと立ち去ってください。見えなくても親グマが近くにいて危険です!
  2. クマまで距離があるようなら、そっと立ち去ってください。
  3. 急に大声をだしたり、ものを投げつけたりするとクマは興奮します
  4. 走って逃げず、静かに退避してください。クマは人間より早く走ることができ、逃げるものを追いかける習性があります。クマから目を離さないようにして、背中を見せず、ゆっくりと後退してください。
  5. クマからの攻撃が避けられないときは、頭や首などの急所を守ってください。攻撃が避けられない状況になったら、すばやく地面の窪みにうつ伏せになり、両手で首の後ろをガードします。
糞_クマ ★握りこぶし以上の大きさのフンでまとまって落ちています。
★クマは消化器官は肉食獣に近く、単純な構造のため、食べたものをそのまますりつぶしたようなフンになります。ドングリを食べたクマのフンは黄土色、リンゴを食べたクマのフンはまるですりおろしリンゴのようです。くさい匂いもほとんどなく、食べたものそのままの匂いがします。(写真は秋に、ドングリを食べたフンですが、少し古くなったものです)
糞_シカ

★俵状のフンがころころと転がっています。
カモシカのフンも同じ形状をしていますが、シカとは異なりまとめて糞をします(1か所にフンが300粒以上あれば、カモシカと考え てよいとされています。)

痕跡_イノシシ
★長細い蹄の跡が2つ。シカと似ていますが、その後ろに1対の副蹄の跡がつくのがイノシシの特徴です 。
しかし、副蹄は写真のような泥地など、柔らかい地面でないと跡がつきません。
その場合はシカとの区別は難しいです。掘り返し跡や糞を探して、シカと区別しましょう。
痕跡_クマ
★こんなビックサイズの足跡はクマしかいません。
子グマの足跡は小さいですが、大きめの手のひらとアーモンド形の肉球が特徴です。
その他痕跡_掘り起し ★イノシシは土中のミミズや草木の根を探し、地面を掘り起こします。
ライン
その他痕跡_ぬた場
★イノシシやシカは体についたダニやノミを落とすために泥浴びをします。
このような泥浴び場を、「ぬた場」といいます。
ライン
その他痕跡_体こすり ★泥浴びをしたのち、体を木の幹にこすりつけます。
ライン
その他痕跡_爪痕 ★クマは秋にドングリを食べるため、木に登ります。その時に爪痕が木の幹に残ります 。
こんな大きさの爪痕を残すのは、日本にはクマしかいません。

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


織田 信次の墓  近江国(八日市)

2015年11月03日 | 武将

織田信次(織田 信貞の長男)

織田 信貞(おだ のぶさだ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。
1582年、父・織田信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。
成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた川合寺館(津田氏邸)

1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。

1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。

家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。

貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、および分家は旗本として仕えている。貞置は叔父の織田有楽斎(織田長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。

三熊派の画家、織田瑟瑟(しつしつ)も、信貞の子孫として伝えられている。川合寺館(津田氏邸)

写真は滋賀県東近江市瓦屋寺に残る、長男信次とその母の墓塔。
石崎山 瓦屋寺(かわらいじ)
所在地:滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436
 
織田信長の九男 信貞には、二人の男子あり。長男が信次・次男が貞置。その次男貞置が跡を継ぎ、東京品川の菩提寺に貞置の墓がある。寛政譜にあります。
 
参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「泰巖宗安記」貞置

川合寺館(津田氏邸)   近江国(八日市)

2015年11月03日 | 平城

織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた 

お城のデータ

所在地:東近江市川合寺町(旧八日市市川合寺町)

区 分;居館

現 状:寺院・宅地

築城者:織田信長の九男織田信貞

築城期:織豊期

遺 構:印塔、末裔の織田瑟瑟の墓

駐車場:無し(西蓮寺の門前の空きスペース)

訪城日:2015.11.3

お城の歴史

安永8年(1779年)、こん近江国神崎郡(現在の滋賀県八日市市川合寺で、知行700石を領する。

津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。信貞は関ケ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。

 代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国 川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。

写真は滋賀県東近江市瓦屋寺に残る、織田 信貞の長男信次とその母の墓塔。

石崎山 瓦屋寺(かわらいじ)
所在地:滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436

織田 信貞(おだ のぶさだ、天正2年(1574) - 寛永元年6月6日(1624年7月21日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。

生涯

1582年、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。

成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた。

1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。

1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。

子孫

家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、および分家は旗本として仕えている。貞置は叔父の織田有楽斎(織田長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。

三熊派の画家、織田瑟瑟(しつしつ)も、信貞の子孫として伝えられている。



織田瑟瑟(織田信長の末裔)は、津田内匠貞秀の長女として誕生、幼名は政江。

幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。

 瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。織田瑟瑟の画像

ところが夫も寛政9年に死別する。

文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。

しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。

天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。

JR安土駅前の織田信長の銅像の横に、『織田桜』の説明板

なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない。

宝筺印塔・・・

織田桜…織田瑟瑟の画像

瑟瑟が描く絵はほとんどが桜絵であったことから地元近江では「織田桜」と称され、今も数多くの作品が残る。露香門下で瑟瑟の名は類まれな彩色手法より高く評価され、瑟瑟が桜の絵を描いていると空飛ぶ鳥が実物と間違えその絵の桜に止まりに来たとの逸話も残されている。

瑟瑟の落款や画風の変遷はおよそ4期に分けられる。第一期は寛政後半から享和初年までの、結婚から死別を経て再婚するまで。款記には織田姓を記さず瑟瑟のみ記し、印には「織田氏女」「瑟瑟」の大印を用いる。画風には、師・露香の影響が残る。第二期は享和初年以降から文政4年(1821年)20代から43歳までで、貞逸が成人する頃までに当たる。落款に織田姓をほとんど書き込み「織田氏女瑟瑟」と記す。印は、第一期の大印は使用せず、「織田氏女」「瑟瑟」小印と「惜花人」印を組み合わせる。作風は師と決別し、桜そのものの描写に重きを置いていく。絵の上部は幹の上を花が覆い、絵の下方からも若枝が伸び花を咲かせるといった二層式構図が典型的に用いられる。第三期は文政4年から文政12年(1829年)51歳まで。もっぱら「貞逸母」と記す。印は第一期の大印を再び用い、「家在越渓南岸」の巨大印を併用することも多い。画風は最も特徴的で、地面は盛り上がり幹は老木となって、花はみっしり咲き誇る美しくも力強い作品が多い。第四期は文政12年から没年まで。落款は「貞逸母」から「織田氏女瑟瑟」に戻って自体は細く弱くなり、印も第二期のものに戻る。画風も優美になり、繊細かつ円熟した作品が残っている。

銅像の隣に(織田桜)大和桜と駒札銅像の隣の駒札に「織田桜」川合寺の西蓮寺で、毎年も信長の血縁の「織田瑟瑟の桜画展」が開催される。

参考資料:ウィキペディア、繖山ミニトレッキング(三角点~観音寺城址~観音正寺~瓢箪山古墳)織田瑟瑟の画像

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


前田慶次:屋敷跡発掘調査 「無苦庵間違いない」

2015年11月03日 | 武将

「かぶき者」として知られる戦国武将・前田慶次が晩年住んだと言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で発掘調査を行った「米澤前田慶次の会」と、調査を指導した同市教委は2日、「慶次の無苦庵(むくあん)の屋敷跡にほぼ間違いない」と発表した。納屋などと見られる直径20〜30センチの柱穴約20基や、四方から見つかった土塁や堀の工法が江戸時代初期のものと合致することなどから、慶次の武家屋敷跡との認識を示した。【佐藤良一】

 調査は10月下旬に開始。民家脇の畑を含む東西100平方メートルなどを深さ約20〜30センチ掘ったところ、柱穴約20基を発見した。約20センチの柱穴群は塀や柵、並列した状態の約30センチの柱穴群は納屋か作業小屋のものとみられるという。

 調査地の北と東の外側では「V字型」の堀が、南と西の外側からは高さ約1メートルの土塁が見つかった。堀は「薬研堀(やげんぼり)」、土塁は「版築(はんちく)」と呼ばれる工法で造られており、慶次が米沢に住んだとされる江戸初期の技法と見られるという。

 測量の結果、屋敷全体は東西109メートル、南北72メートル四方の広さがあったことが判明。同市教委文化課の手塚孝主任は「この広さなら武家屋敷に間違いない」と断言した。屋敷の母屋は地形から判断して、中心にある現在の民家付近にあったと考えられるという。

毎日新聞 「無苦庵」屋敷跡を報道陣らに説明する米沢市教委の担当者=米沢市万世町で2015年11月2日・・・佐藤良一撮影

  土塁からは、古伊万里焼の茶碗片1点が見つかったほか、柱穴群からは白磁皿片1点、堀からは木坑1点が出土した。屋敷跡は、慶次が生活に利用したといわれる「慶次清水」と約300メートルの水路でつながっている。

 慶次は1602年、上杉景勝とその家臣直江兼続を慕って米沢に住み、12年に堂森で死去したと伝えられているが、死亡場所には諸説ある。慶次の会によると、上杉氏の米沢藩が、慶長年間(1596〜1615)初期に編集したとされる村勢一覧「邑鑑(むらかがみ)」には、堂森地区に武家屋敷の記載はないという。同会の梅津幸保会長は「編集後に慶次が居を構えたとすれば理屈に合う」と話し、「400年前から堂森一帯に伝わる慶次居住の痕跡を確認できた」と喜んだ。

 3日午前8時半から午後4時まで一般向けの現地説明会を行う。慶次の供養塔がある善光寺北側で。雨天決行。4、5日に埋め戻し、来年3月までに報告書をまとめる予定。

 慶次はドラマや人気漫画の主人公として取り上げられ、一時ブームが起きた。今回の調査結果で、さらにファンが訪れそうだ。

情報:毎日新聞


織田淡水の墓(供養塔)  近江国(八日市)

2015年11月03日 | 武将

織田淡水墓石 供養塔(正面)

墓石の表面には「織田淡水府君墓」と刻まれ、側面や背面には一之の事蹟などが述べられています。

織田淡水墓石(側面)

織田淡水墓石(背面)

所在地:東近江市野村町(旧・八日市市野村町)  map:http://yahoo.jp/x0X50Wttpこの地図のURL

 織田淡水の墓(供養塔)

滋賀県には、安土城をはじめ信長に係わるものは数多くあります。ところが、その子孫となるとどうでしょう。ほとんどの人がその名前すら知らないでしょう。

信長のひ孫にあたる人物。 信長の七男に信高、その子高重の時に旗本寄合となり、近江国神崎郡に約2千石を与えられました。その場所は現在の近江国(現在・東近江市)神田町・野村町・外町にあたります。高重を継いだのは一之です。

一之は淡水と号し、元禄8年(1695)6月12日に亡くなっていますが、その墓が東近江市野村町の陽泉院境内にあります。

墓はもともと境内にあったものではなく、八風街道に近い林の中にあったものが、数度の移転を経て陽泉院に置かれるようになったと

 
 

織田一之の本当の墓は東京深川の要津寺にある。
一之はここに知行を持つとはいえ旗本だったので、江戸に暮らし、墓も江戸にある。
信高流家系の当主のうちどうして一之の墓のみがここに建立されたか。
「歴代当主の中でも、特に知行地である野村町一帯と縁が深く、供養碑として建立されたのでは・・・」
 
 元フィギアスケートの選手で、織田信長の子孫として知られている織田信成さん、この信高流家系の末裔です

おすすめPoit

 陽泉院境内には、織田淡水の墓とともに「鳩塚」なるものがあります。これは、旧陸軍によって飼育されていた伝書鳩の墓のようです。軍隊によって用いられていた伝書鳩のことを「軍鳩(ぐんきゅう)」とも言い、日本には明治年間に入ってきたそうです。

 野村町に隣接する沖野には、かつて旧陸軍の飛行場があったことから、その関係で陽泉院境内に「鳩塚」が建立されたのでしょう。

この「鳩塚」ですが、わかりにくい場所にあります。

なお、彦根市にある護国神社の境内には、軍によって使われた馬や犬・鳩のための慰霊碑が昭和60年(1985)に建てられています。

 鳩塚

 
周辺おすすめ情報
すぐ近く神田町自治会館に太鼓櫓が残っています

集落・家並みは続いてますが、神田町です

 陽泉院より徒歩数分のところに神田町公民館がありますが、その敷地に太鼓櫓が建っています。太鼓櫓とは、太鼓の打ち方によって火災や水害・集会の知らせなどに使われた、合図のための施設です。旧八日市市内には、こうした太鼓櫓が7基残っているそうです。

参考資料:滋賀県文化財保護協会HP

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