城郭探訪

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安養寺陣所  近江国(栗東)

2015年11月05日 | 陣所
 安養寺由緒の石碑 
 

お城のデータ

 所在地:栗東市市安養寺88 map:http://yahoo.jp/gqT3uM

現 状:安養寺・山林(八十八霊場)

築城期:奈良時代 天平十二年(740) 

築城者: 良弁僧正が開基

陣所期:室町期

陣 主:足利九代将軍義尚 

区 分:陣所

遺 構:主郭・郭・土塁・空堀

標 高:ー m 比高差:30m

駐車場:安養寺参拝者駐車場

訪城日:2015.11.5

お城の概要

 安養寺城は、奈良時代創建の安養寺を、六角討伐に足利九代将軍義尚が最初に陣所を構えた。栗東市立治田東小学校に燐で名神高速道路が門前の東を走る。

安養寺の境内の山中にはミニ八十八所巡りの石仏は配置され、城郭遺構の低土塁・平削地・大きな空堀が残る。六角討伐に足利九代将軍義尚に従軍した兵士の宿所と想像する。

 

歴 史
 
 足利義尚が最初に陣をおいた安養寺、甲賀衆(甲賀忍者)はこの地を夜襲したと伝えられる。その後、義尚は永正寺に本陣を移し、同地において客死した。
安養寺の境内は高速道路に寸断され、永正寺は土塁がわずかに残るばかりで、過ぎ去った歴史の軌跡をたどる難しさを実感する。
 
 
『長興宿羅記』に
・鈎陣所・・・長享元年10月4日の条「令著陣同国鈎安養寺給」
・・・・・・・・・・長享元年10月28日の条「今日自江州陣上洛人語日、将軍御陣所被改鈎安養寺、令移同所真法館(山法師也)給、被館狭少之間、仮陣所一」宇被新造、伊?奉公外様軍勢、各改陣所参候御近辺云々」とある。
 
   
表参道
表山門県指定庭園の説明書 
 
山門を入ると左では、空堀が100m
薬師堂外観 
歴史
     
安養寺の歴史  

歴史1 (安養寺山の麓に、良弁によって開基)

 安養寺山の麓に、聖武天皇の勅願により、東大寺の建立に尽力し、金勝寺を開基した良弁によって開基されました。

当初は法相宗に属していましたが、承和元年(834)太政大臣藤原良房の本願により、弘法大師こと空海が中興開基され、以後真言宗大本山大覚寺派の名刹として知られています。 

歴史2 (焼失と再建)

 安養寺には、弘法大師が作ったとされる愛染明王や大黒天などが残っています。
皇室の帰依も厚く、弘長3年(1262)に亀山天皇が諸堂を再建したと寺伝に記されています。その後、火災に遭いましたが、嘉元2年(1304)に復興しました。

 長享元年(1487)、室町幕府と対立し、近江で力を誇っていた六角高頼氏を討伐に出陣した第9代将軍足利義尚が、栗東で最初に陣を構えたのが、安養寺でした。

安養寺に入った義尚は、本格的に甲賀郡内の六角勢掃討に着手しましたが、長期化を予想した義尚は、手狭な安養寺を出て、上鈎にある永正寺に陣を置きました。この戦いの時に、六角勢の兵火にかかり、十二ヶ院などの建造物が焼失しました。 大永年間(1521~1528)に再興されましたが、再び戦乱に呑みこまれてしまいます

 元亀元年(1570)8月9日、織田信長が佐々木氏の残党と戦ったその兵火を浴びて、本堂・僧房などがことごとく焼け落ちました。 

歴史3 (再興)

 貞享元年(1684)に京都から慧堅戒山が入山し再興し、正徳元年(1711)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣に末永く天下安全の祈祷を修する旨命じられました

東方山安養寺の略縁起
  和暦(西暦)          内容
天平十二年(740) ・聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基。
         ・本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。
承和元年(834)  ・弘法大師空海が中興、真言宗に改宗。伽藍造立の本願は太政大臣藤原良房。
弘長三年( 1263) ・亀山天皇は勅願所とされ七堂伽藍をはじめ二十余の僧坊の並ぶ大伽藍を建立、弘法大師作の愛染明王を下賜される。
長享元年(1487) ・足利九代将軍義尚が佐々木(六角)高頼討伐のため、陣所とする。
         ・しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興。
元亀元年(1570) ・織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊等の一部を除いて、すべて焼失する。
貞享元年(1684) ・戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。
享保三年(1718) ・後西院の皇女宝鏡寺理豊宮より、
          後西院天皇真筆の「東方山」・「安養寺」・「放光院」の山号・寺号・院号の三額を賜る。
 
参考資料:『湖国と文化』2015年秋近江の古戦場、安養寺HP、滋賀県中世城郭分布調査

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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