goo blog サービス終了のお知らせ 

城郭探訪

yamaziro

・奥津島神社

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

中世に奥津島神社の頭山に「沖島頭山城」が、石垣も残っている。

 万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。

 

「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、

奥津島神社からさらに上お社が!

 更に上には、「沖島頭山城」が、石垣も残っている。

和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。

 奥津島神社の下に「沖島郵便局」が!

 

 


・沖島 城跡

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

沖島坊谷城

CIMG0091.JPG城跡の石垣!。(近世前は畑を作っていた、郭跡で)

水泳場から、湖岸を

CIMG0150.JPG

CIMG0151.JPG弁天神社(近年、道を整備して歩いてお参り行けるようにしたそうです)まで。

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

 

今参り局

 室町幕府8代将軍:足利義政の側室が「今参りの局」である。正室である日野富子は男児を出産しましたがわずか20日足らずで死亡したため、今参りの局一族が祈り殺したとの罪で、沖島へ流罪とし、数日後に京からの使者により惨殺させました。その時に助けられたとされるのが彼女の子「櫻子」である。小説「櫻子」は昭和34年に大仏次郎によって執筆され新聞連載されました。


・おきしま資料館

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

蓮如上人御旧跡・・・石碑

虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

 

おきしま資料館

徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

織田信長が沖島に向けて出した書状。

戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。

徳川家康文書

関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。

 文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、秀吉文書(管浦観音寺文書)、

赤崎神社の沖から、しじみに混じって「縄文土器や和同開珎」が発見されました

2階へ

沖島の歴史

万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・堀切港と通船おきしま

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

堀切漁港

通船時刻表に【しらさぎ伝説】

通船桟橋・・・浮き輪の上の・は通船おきしま

堀切港~5分 500円/片道

沖島尾山

就職体験中!

 

沖島港から伊崎山

漁民の碑

http://healthytourism.seesaa.net/

ヘルスツーリズム琵琶湖沖島の会

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・昼食 あじさい村(味彩村)

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

お問い合わせ
住所: 近江八幡市大中町405−2http://yahoo.jp/jFvcGe
TEL: 0748-32-2284
地域: 滋賀県 > 近江八幡市

業種:ドライブイン・道の駅

近くに、沖島(山善水産)

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・タイムスコープVR安土城再現

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

タイムスコープVR安土・・・youtube(要准)

http://www.youtube.com/watch?v=VDhO3HI4e88

安土城があった時代の風景を楽しむアプリ 近江八幡市がiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開

2013年4月8日、近江八幡市はiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開しました。

このアプリは、安土城が存在した風景をiPhoneあるいはiPadを通じて眺めることができるもので、安土城大手門前で利用すると、かつてその場所から見えた当時の城郭がフルCGパノラマで再現されるとのことです。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1196ea9b2d119f73c42eee0a071cc5a9

VR安土城(iTunes)
https://itunes.apple.com/us/app/vr-an-tu-cheng/id626839608

VR安土城タイムスコープの無料アプリリリースの完了について (近江八幡市 2013/4/8付けの記事)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/contents_detail.php?co=new&frmId=7070

広報おうみはちまん2013年4月号 (PDF) (15ページにアプリの紹介があります)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000007/7036/13-04-01-all.pdf

バーチャルリアリティー安土城プロジェクトについて (近江八幡市)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/contents_detail.php?frmId=5743

 

 



参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

原題:劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日NHKの人気TVシリーズが豪華キャストを迎え、待望の映画化!!

未来の通信社の記者=時空ジャーナリストが、タイムワープ技術を使い、教科書に載らない名もなき人々に密着し、歴史の真実をドキュメンタリータッチの取材映像であぶり出していく――。その独自のコンセプトが話題のNHK「タイムスクープハンター」が、遂に映画化!
劇場版の舞台は、織田信長が天下統一の拠点とするも、謎の焼失を遂げた“安土城”。
臨場感溢れる映像で、未だ解明されない歴史の謎に迫っていく。
出演は、テレビシリーズから引き続きとなる要潤、杏に加え、夏帆、時任三郎ら豪華キャストが顔を揃えた。スケールアップした「タイムスクープハンター」で、戦国乱世の最前線を体感せよ!

8月31日 新宿ピカデリー他全国ロードショー

 

タイム スクープハンターhttp://www.youtube.com/watch?v=gZLP3CokRww

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・石切り場

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

頭山の旧石切り場)奥津島神社の反対側

島に平地はありません。
 野菜はどうしているのか!島の裏側(漁港と反対側)にある畑で野菜を作っているということでした。
 かつては船で対岸まで畑仕事に出かけた時期もあったそうです。
  
20061012okishima(26).jpg
 島の裏側に回ってみました。
あまり広くない畑で野菜が育っていまし
た。畑で野菜の面倒を見ているのは女性
ばかりでした。

 

 

小石の敷き詰められた湖岸、近くに、沖島小学校の水泳場。

旧石切り場に近い野菜畑
 20061012okishima (20).jpg

  浜辺はきれいな白っぽい石で覆われていました。
 畑の境界には、あちこちで薄い石が積み上げられていました。どうやら、人
 工的に手を加えられた石が使われているようです。

2012年6月の活動1人で、『島内探訪』

島の案内書を読んでみると、かつて、江戸時代から昭和40年代まで、沖島は採石場として栄えました。

石英班岩と呼ばれる良質の石は、明治時代の琵琶湖疎水、南郷洗堰、国鉄東海道線などの工事に使われたのだそうです。

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


・長命寺

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

書院春蘭

不老長寿の「むべ」

 6番に歌われる長命寺に建立「琵琶湖周航の歌」歌碑(11年11月10日配信『滋賀報知新聞』)

   「琵琶湖周航の歌」の六番の歌詞が刻まれた歌碑の除幕式が、歌詞に登場する近江八幡市長命寺町の長命寺であった。

  歌碑は、香川県産庵治石(高さ約130センチ、幅約180センチ)で、「西国10番(実際は31番札所) 長命寺 汚れの現世(うつしよ) 遠くさりて 黄金(こがね)の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心」のフルコーラスが刻まている。夕暮れには黄金色の琵琶湖の波を臨むことができる境内の一角に建立された。

  6番の歌詞があまり知られておらず、長命寺港近くに建つ石碑はフルコーラスではないことから、桜宮町の会社役員、深尾勝義さん(68)が、ニューヨークを中心に活躍するジャズ歌手の長女・多恵子さん(37)が昨年発表した5枚目のアルバム「声 VOICE」に収録した「BIWAKO」(琵琶湖周航の歌 日本語と英語バージョン)が全米で注目を集めていることを機に、寄進した。

  深尾さん父娘らによる除幕に続いて、多恵子さんがアカペラで英語バージョンの「BIWAKO」を歌い上げ、歌碑建立を祝った。

 

 長命寺はかなりの高所にあるので境内から琵琶湖を見渡すことができる

秘宝曼荼羅http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002401.htm

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?id=A0002140&type=article

近江八幡市長命寺町の穀屋寺の倉庫から、「長命寺参詣曼荼羅(まんだら)」三点、「熊野観心十界曼荼羅」二点、「古文書」千点が、このほど発見された。
 穀屋寺は、長命寺の米穀出納のほか、災害や兵火によって失った寺の再建・修復のために各地を巡って浄財を集める勧進(かんじん)を担当した寺で、越前国織田(現・福井県越前町織田)出身の春庭慈芳尼(しゅんていじほうに 一四九二―一五四七)を中心とする勧進聖(ひじり)集団による勧進活動の拠点となっていたと思われる。長命寺は、永正十三(一五一六)年に兵火で本堂など主な堂舎が焼失している

 「長命寺参詣曼荼羅」はこれまで長命寺と個人所有の二点が知られていたが、今回、同一場所(木箱)から同時に三点が発見されたのは画期的。

 また、「熊野観心十界曼荼羅」二点といっしょに、同じ木箱に五点とも折り畳んだ状態で納められていた点で通例掛け軸などに仕立て直されて発見されるのがほとんどであるのに比べても珍しく、使用状態を物語るものとしても意義は大きい。さらに、七点もの曼荼羅が一つの寺で見つかるのも全国的に珍しい。
 「長命寺参詣曼荼羅」には長命寺の本堂や三仏堂、三重塔の建物や参詣者のにぎわいなどが克明に描かれており、勧進聖などが絵解きをしながら寄付を募った。

今回発見したものは戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作とみられる。大きさは縦約百五十五―百六十センチメートル、横約百六十―百八十センチメートル程度。
 「熊野観心十界曼荼羅」は全国で六十数点が確認されているが、「那智参詣曼荼羅」とのセットで発見されることが多く、今回のようにそれ以外のものとのセットも珍しい。
 上から、人の人生(老いの坂)、仏界、「心」の文字、中心部に亡者の救済をあらわす施餓鬼法要(せがきほうよう)、下部に地獄界が描かれるが、今回発見のものには仏界に、阿弥陀(あみだ)、薬師、釈迦の三仏が描かれており、通例一体の仏であることから考えて特徴的といえる。
 古文書で、兵火の翌年(永生十四年)に出された「長命寺勧進状」(一巻)は、穀屋寺の役割の大きさをうかがい知ることができる。

http://saikoku33.gr.jp/31/index.htm

三重の塔のこけら葺の再生事業~H263.31の説明

御詠歌:八千年(やちとせ)や柳に長き命寺(いのちでら)運ぶ歩みのかざしなるらん

Chomeiji Temple 長命寺 近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために

                             

 太郎坊大権現社への道境内の西端に「太郎坊大権現社」及びその「拝殿」がある。左の写真はそちらに向かう参道である。

 太郎坊大権現社 左の写真で手前左側にある建物が「拝殿」、写真右上に見えるのが「太郎坊大権現社」である。

 ここには長命寺の修行僧で空を飛んだり、風雨を呼ぶ霊力をつけ、後に京都の愛宕山に移り住んだと伝えられている太郎坊を祀っている。愛宕山の太郎坊は神として信仰の対象となる大天狗の名がついている。

 

 

 

 

ドライブウェイから

 

長命寺山ハイキングコース入口

ドライブウェイから水茎岡山城

日吉神社

長命寺への案内

門前町

歴史

琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。

伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。                                            このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。                                                                                      その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。                                                                                    太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。

長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。                                                                                  それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。

現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!