城郭探訪

yamaziro

まちなか研究ゼミ【講師 中井 均准教授】2012.12.24

2012年12月27日 | 平城

レジュメ秀次居館の縄張りファイル:Toyotomi Hidetsugu.jpg

近江八幡と秀次の関係
1568年、豊臣秀吉の近臣三好吉房と秀吉の実姉「とも(日秀)」との間に生まれた治兵衛(秀次)は、戦国時代の慣わしでしょう、秀吉の人質となって四国の三好康長のもとに養子に出され名を三好孫七郎信吉と名乗っていました。
14歳の時、秀吉の跡継ぎとして羽柴孫七郎秀次に改名しています。

そして本能寺の変の後、秀吉とともに明智光秀を討ち、翌1583年には伊勢の滝川一益攻めや賤ヶ岳の戦いに軍功をあげ、河内北山2万石を与えられました。
同年、小牧長久手の戦いでは、家康の本拠地の岡崎城を攻めることになっていましたが大敗し大垣城で謹慎を命じられています。

1585年3月、謹慎を解かれて和歌山の根来衆を討ち、四国の長宗我部元親も倒し、ここ近江の国に43万石を与えられ8月に八幡城の建設を始めたのです。

鳥瞰図

 

 

現地見学会・・・・

日牟礼八幡宮の大鳥居・・・すぐ石積み「ノミの跡のある石」

残念石(石工が割り切れなくて放置)

残念石(石工が割り切れなくて放置)

残念石(石工が割り切れなくて放置)

 

八幡城下町・・・京都と同じく縦・横に・・

八幡城下町・・・京都と同じく縦・横に・・

東に「安土城址と西の湖」

二の丸下で中井 均講師

リュックに【勝 六文銭】のお守りが!4

西の丸虎口の石垣に、「正方形の加工石」

本丸虎口で「石工のノミ跡」が、はっきりと!

村雲御所=瑞龍寺の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)

 

南東・・・遠くに鏡山・三上山、手前へは舟木町の砕石された***山?

南方面・・・蒲生野(瓶割山城祉・岩倉山)一望!

本殿前で

開山塔!

村雲御所本殿

北の丸の石垣

北の丸の石垣

北の丸石垣

北の丸下の土橋

北の丸下の縦堀

本丸のノミ跡(西の丸~北の丸への正面石垣)

 

 

 

秀次の館跡

12月24日は、現地見学会は、幸い好天で

講師に石井 均准教授の「石工や石垣」にポイント絞った詳しい説明の「現地見学会」でした。

本日の歩数    11,220歩   1時間56分    7.8km
消費カロリー 235.6kcal    脂肪消費量 33.6g
 
 
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
 
 
 
管理人が確認したノミ跡
探訪 布施山城址 2012.1.19
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/528a70b6bcd423e182b88a5fbb822e1e


探訪「水茎岡山城」 (頭山)
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/33b530bb30ea328ab7f3e37e6464122e

探訪】平家終焉の地・源義経ゆかりの地を訪ねて  2012.12.8
御幸山に(大正天皇の陸軍演習を)
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/d/20121208

【探訪】 八幡堀・城下町・街道 2012.12.22

2012年12月27日 | 探訪「大地の遺産」

八幡城下町(古地図)日牟礼八幡宮楼門綺麗な、お姉さん…「近江牛うどん・そばの市」の勧誘ハンドビラを!八幡掘りの説明板白雲館(現在は観光案内所)          明治10年に八幡東学校として建築された白雲館は、当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物です。近江商人が子どもの教育充実を図るためその費用の殆どが寄付で賄われました。
現在は観光案内所が設けられ観光情報の提供や、お土産や特産品も展示販売されています。また、2階フリースペースでは、市民ギャラリーとして各種催しが開催されています。
{白雲館の歴史}
明治10年 建築落成
明治26年 本校舎新築のため学校の役割を終える
明治28年 八幡町役場
明治33年 蒲生郡役所
大正11年 建物の一部が八幡町信用組合が使用
大正11年 蒲生郡役所新築移転
大正12年 再び八幡町役場になる
昭和26年 電報電話局、食料事務所八幡出張所、
昭和41年 民間所有
平成 4年 近江八幡市に移管
平成 5年 修理工事着工
平成 6年 修理工事完成(明治期の姿を復元)                                                                   平成10年 登録文化財

日牟礼八幡宮の大鳥居


近江商人の町(街角に沢山立ってます)八幡山城祉、左の平坦地に出丸八幡掘り赤のたにん(丼・赤コンニャク×赤い肉?)

城下町の建設・整備については秀次には自由都市構想とでも言うべきなのでしょうか、織田信長の楽市楽座に見ることのできる「定、安土山下町中」十三箇条の掟書きを模して「八幡山下町中」十三箇条の掟書きを定めました。内容はほぼ信長のものと同じです。

が、
この掟書きに合わすように秀次は全長6kmの運河「八幡堀」を建設しています。つまり水上交通を利用するものはすべて八幡の町に入ることを定め、陸路を通る者も八幡を通ることを義務付けています。八幡山城祉、左の平坦地に出丸新町浜(秀次掟書きに)夢菓子!ポン菓子!(新浜湊の正面で)

 

排水路の石積が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

国内唯一の瓦専門の展示館。館内は八幡瓦を中心に展示紹介を行っています。建物も、瓦の魅力を生かしたもので大変好評です。また、瓦粘土を使った陶芸教室も開催されています。

空から見たかわらミュージアムの写真

~八幡瓦の起源についてみると、城郭建築に瓦の生産が大きく関与しているとするならば、豊臣秀吉の命によって豊臣秀次が天正13年(1585)に築城した「八幡山城」にその淵源を求めることができる。八幡山城の築城において、当然瓦を葺いた瓦工の存在を指摘することができるが、現在のところ瓦銘が残るなど資料的には確認できていない。「近江八幡市史」より抜粋~

  瓦と八幡を考えるとき、開祖豊臣秀次が築城した八幡山城を抜きには語れません。当館は八幡堀沿いに建つミュージアムとして、豊臣秀次居館跡より出土した金箔瓦や軒丸瓦を展示しております。

 秀次が八幡山城を築城した際、整備した八幡堀を利用して、瓦の製造も栄えました。江戸時代八幡瓦で葺かれた寺社は市域だけでなく、他所にも多く見られます。江戸時代の鬼瓦や瓦人形から当時の職人の技術、芸術性の高さをご覧いただくことができます。

 それ以降は地場産業としての瓦製造が展開されます。八幡堀沿いに数多く操業していた各工房、製作所の鬼瓦を展示しております。鬼面だけでない子孫繁栄の意味を込めた桃、商売繁盛の大黒さんなど、鬼瓦から日本人の心の豊かさ瓦職人の遊び心を感じていただくことができます。

 瓦の製品や道具、何より瓦職人の技術や思い、誇りを後世に伝えるため当館が建設されました。周囲の町なみに調和した建物も「展示品」のコンセプトのもと、新しい瓦の使い方、古瓦の再利用などを考えていただける場として、『あたらしいに出会える場所』として、八幡瓦を未来へ繋げていく展示、事業を行っています。

 又、当館周辺の旧市街地は、商家の町なみが国の「伝統的建造物群保存地区」に選定されており、古い町なみを守りつづけています。その町なみをかたちづくる重要な要素のひとつにいぶし瓦の屋根並があります。町なみだけでなくそれを形作る要素を生み出した技術も保存し、体系として町なみを捉え、これからのまちづくりに活かしてゆくことも本館の使命のひとつです。


目賀田城 近江国(安土)

2012年12月26日 | 平山城

誰も知らない、安土山(目賀田山)には、目賀田城

お城のデータ

所在地:東近江市南津田町/近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/LtlVbu

区 分:平山城

築城期:南北期

築城者:目加田氏(佐々木六角の重臣)

現 状:森林 (現・安土山の番場平) 

遺 構:平削地(曲輪)・石垣・土塁・虎口・空堀・

目標地:安土城(腰超峠)

訪城日:2016.12.26

お城の概要    

安土城には有名な大手道の他に百々橋口道、七曲り道、搦手道、東門道があります。

安土城東門道 

この東門の入口は北腰越と呼ばれる、安土山と観音寺山の間を通る朝鮮人街道の峠付近にあります。安土城の駐車場からは 内堀跡の散策道を通って300メートルくらいのとろにある松源院弘法大師堂から入る事ができます。また入口はここ以外にもう一つあり、立派な「安土城址」石碑が立てられていまが現在この入口は塞がれています。

東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行できます。また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。

お城の歴史

目賀田氏 

目賀田氏は、中世の近江に生きた武家で、近江守護佐々木六角氏の重臣のひとりとして勢力を誇った。

その出自に関しては、一条天皇の御宇(986~1011)、藤原道綱の次男中将道忠が京から近江に移り目賀田山を拓いて住した。そして、道忠ののち道信、信忠と続き、信忠がはじめて目賀田を称したことに始まるという。
 一方、湖東地方を流れる宇曽川流域にある藤原氏の庄園である八木郷の庄官として赴任した藤原某の後裔とする説もある。庄官藤原氏は在地支配者として代々勢力をたくわえ次第に武士化、鎌倉時代の中ごろに目賀田山を拓いて館を構え目賀田氏を称したと伝えられる。武士の発祥という点から考えれば、庄官説の方がうなづけるところがあるといえようか。
 いずれにしろ、目賀田氏の正確な系図は伝わっていないため、その発祥に関しては不詳というしかない。

 目賀田氏が史上にあらわれるのは鎌倉時代末期から南北朝時代はじめにかけてのことで、比牟礼八幡の神主に補された目賀田五郎兵衛信職・同五郎兵衛信音父子、二郎左衛門信良らの名が散見する。いずれも鎌倉幕府の御家人であり、目賀田氏がひとかどの武士であったことが知られる。五郎兵衛信職(入道玄向)は元弘三年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに従軍して戦功があった。
 その後、建武の新政、南北朝の動乱へと時代が動くと、目賀田氏は足利氏に属して各地を転戦した。それらの戦功により文和元年(1352)、坂田郡福能部庄切田の地頭職に補されている。また、貞治六年(1367)に玄向は将軍足利義詮からの命を受け、佐々木京極道誉に竹生島に乱入する者を取り締まるように伝えている。信職のあと目賀田城主となった信音は近江守護代に任じられ、禁裏の警護役を務めたことが知られる。
 ところで佐々木氏は鎌倉時代より近江守護職を世襲したが、のちに宗家は六角と京極の二家に分かれ、六角氏は江南を京極氏は江北を領してたがいに覇を争った。目賀田氏も数家に分かれていたようで、佐々木六角氏頼の旗頭に目賀田城主摂津守秀保の名がみえ、秀保は六角氏四天王の随一であったという。一方、佐々木京極道誉の麾下に目賀田弾正左衛門、同弾正忠信良がみえる。
 おそらく南北朝期における目賀田氏の宗家は近江国御家人として足利氏に直属しながら守護佐々木氏と協調、庶子や一族は両佐々木氏に分かれて仕えたものであろう。ところで、明徳三年(1392)に京都相国寺供養が行われ、諸国の大名が参列した。近江守護佐々木氏も参列したが、その中に目賀田六左衛門尉頼景、目賀田次郎左衛門源武遠の名がみえる。このことから、目賀田氏は藤原姓のほかに源姓を称する家があったことが知られるが、それぞれの系譜関係は分からない。

 安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

この道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能ですが、(天守へはいけません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行できます。また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。

 安土城図江州安土古城図

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

 

参考資料:『近江蒲生郡志』、Wikipedia、雪野山♡しもはねだ里山天国

本日の訪問ありがとうございす!!


【近江戦国探訪】八幡 秀次の城と城下町 城編 2012.12.22

2012年12月25日 | 平山城

【近江戦国探訪】八幡 秀次の城と城下町・・・・今日も雨でした。

八幡山城は、雲の中・・・・!

 天正13年(1585)、羽柴秀吉は甥の秀次に近江湖東地域で43万石の領地を与え、八幡山に城を築かせました。                         八幡山城主となった秀次は、織田信長にならって城下町に楽市楽座令を出すなど、城下町の振興を図り、現在の近江八幡市の基礎を築きました。

 
八幡山城の築城によって、織田信長の居城であった安土城は廃城となり、中世から近世へと時代は移り変わっていきます。八幡山城の築城は、近世の幕開けを象徴する出来事だったのです。

 
 八幡山城は標高285mの鶴翼山の山頂から山麓にかけて築かれました。随所に残る石垣が城の雄大さを示しています。また最近、山麓部から秀次の館跡をはじめとした複数の屋敷群の発掘調査が行われ、八幡山城の姿が具体的になりつつあります。
この見学会では、専門職員の案内で現地に残された八幡山城の遺構を訪ねます。あわせて城下町を見学することで城と城下町が一体となった八幡の姿をより深く理解していただきたい。

工程 

 八幡公園→秀次館跡→二ノ丸→西ノ丸→北ノ丸→本丸→二ノ丸→日牟礼八幡宮→(昼食休憩)→八幡堀→新町浜→洞覚院(豊臣秀次息女玉姫墓所)→本願寺八幡別院→朝鮮人街道→かわらミュージアム(解散)全行程約10km(山坂道、平地・舗装路)     ※かわらミュージアム(企画展「八幡山城と安土城」開催中)は解散後各自で自由見学

歴代城主

羽柴秀次 1585年(天正13年)~1590年(天正18年) 

    1585年(天正13年)羽柴秀次が近江国20万石を与えられ、この地に築城する。

京極高次 1590年(天正18年)~1595年(文禄4年) 

   1590年(天正18年)羽柴秀次は小田原征伐の功績により尾張国に移封され、替って京極高次が入城する。
   1595年(文禄4年)高次は大津城に移封となり、近江八幡城は廃城となる

 士官屋敷跡   

 

市街地のすぐ北側、標高285mの八幡山山頂にあります。安土城が落城してから3年後、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた城です。
最頂部に本丸をもうけ、その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が京都から移築されています。また、秀次館跡からは金箔瓦が多数出土し、とくに秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)の飾り瓦が発見されるなど築城当時の豪華さが伺えます。

八幡山城跡土瓦 八幡山城跡

4秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)

瑞龍寺の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城) 

天下人となった豊臣秀吉の甥、秀次によって築かれた城です。八幡山城の築城には旧安土城の部材も一部に使用されていますが、麓の館跡から出土する金箔瓦は新たに作成したものです。
 まちづくりに関しては武士と町人の居住区を八幡堀で区切り、町人居住区の城下町は碁盤の目状に整然と区画されています。
 28才で切腹させられた秀次亡き後、城は廃城となりましたが、計画的に整備された都市基盤は近江(八幡)商人の活躍の基礎となりました。以後近江八幡は商業の町として繁栄しました。

本日の歩数   16,964歩   2時間54分    17.8km

消費カロリー  521.9kcal    脂肪消費量 73.2g

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪 瀬田(勢多)城址 2012.12.23

2012年12月24日 | 平城

 

 
 
 
瀬田城祉
瀬田城臨湖庵という料亭が建っていたが・・・
瀬田城跡(に建つ、在りし日の臨湖庵)・・・瀬田唐橋を守る城
臨湖庵跡地に建てられたマンション城跡には臨湖庵という料亭が建っていたが、2008年に近江・臨湖庵と名の高層のマンション。
唐橋の中ノ島より瀬田城址のマンション

瀬田城(滋賀県大津市瀬田)

瀬田は、壬申の乱以来源平の戦いなどで重要な地点だったが、戦国時代、その瀬田川畔に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣・山岡景房だといわれる。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主・山岡美作守景隆は、
本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力尽き、自ら城に火を放って甲賀へ引きあげたため、それ以来廃城となった。その後、膳所藩の別邸となり、禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた(『現地案内板』)。

瀬田は要衝の地であり、駒場で重体に陥った武田信玄が山県昌景を枕元に呼び、
「明日は瀬田に旗を立てよ」(上洛を目指せ)と絶叫して息絶えたとの伝説もある(『甲陽軍鑑』)。

 【瀬田城跡】
壬申の乱以来、源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力つき自ら城に火を放って甲賀へ引きあげそれ以来廃城となり、今はわずかに石垣を残すばかりである。その後膳所藩の別邸となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた。
昭和四十九年 大津市教育委員会
(現地説明板より)

城址には、料亭があったが、現在は高層マンションが建ち、遺構は何も無い。戦国の英傑が往来した瀬田川を眺め、思いを馳せるのみである。

<iframe src="http://map.yahooapis.jp/MapsService/embedmap/V2/embedmap?url=http%3A%2F%2F4619.web.fc2.com%2Fshiro66.html&lat=34.97059567972197&lon=135.90691923894002&z=19&mode=aero&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.970595679722&hlon=135.90691923894&ei=UTF-8&s=1252100342bfb1c8196575649c56f387d41fccfcbb&width=480&height=360" frameborder="0" marginwidth="0" scrolling="no" width="482" height="380"></iframe>滋賀県大津市瀬田2丁目13 地図→

【城址からは新幹線の鉄橋と瀬田大橋も見えます】

 天正元年(1573)7月、足利義昭の挙兵に対してこれを撃破、天正10年の本能寺の変では勢多を守って明智軍の侵攻を遅らせました。のちに豊臣秀吉に従い、賤ヶ岳合戦で柴田勝家側に内応した為、弟の景佐とともに所領没収となり、天正13年正月14日に60歳で亡くなりました。
墓は京都東山知恩寺の養源院にあります。


現在、瀬田城の面影は石碑と説明板しかありません。
マンションの周囲には石垣が積んであります。城郭の説明本にも「石垣が残る」とありますが、果たしてこれらの石垣が当時のものなのか・

明智光秀の進軍を瀬田で迎え撃った山岡景隆とはどのような人物だったのでしょうか。景隆は近江勢多城主山岡景之の長男で、父景之の母は宇野氏と言われています。山岡景隆ははじめ将軍足利氏に仕え、佐々木六角氏のもと、江南の旗頭として織田信長に対抗しましたが、永禄12年(1569)からは信長に仕えました。

ファイル:Hiroshige View of a long bridge across a lake.jpg『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。     

 

 

「窪江城」

瀬田城跡の北方で、湖南・瀬田橋を見渡すかたちとなっており、軍事的要衝

大津市大江にありました。築城は建武年間(1334~1338)で、佐々木氏が創建しました。

山城です。窪江城は、現在東レ瀬田工場内に(石碑があるそうです)がJR琵琶湖線と接する付近の小高い丘上にあって、現在も堅牢な石垣が残されています。その立地は、瀬田城跡の北方で、湖南・瀬田橋を見渡すかたちとなっており、軍事的要衝に位置していました。この窪江城については、歴史的には不明のことが多く、伝承程度のものしか残っていません。それよると、建武年間に、近江佐々木氏によって築城され、勢多判官とその一族が初めて城主となり、のちに足利氏の武将摂津掃部頭が大江・大萱を支配して当城に入ったといいます。さらに、城は戦国時代末期、六地蔵(栗東市)の城主高野甲斐守の支配を経て、織田信長の代に、瀬田城主山岡景隆の弟景祐が城主となったと伝えられています。しかし、明智光秀の攻撃により、景祐が甲賀郡に退いてのち廃城となりました。

 

伝瀬田城跡 

瀬田唐橋の東詰めを右折して南方向に約150m行くと、伝瀬田城跡に至る。
高層マンションに隣接して県道脇に城跡碑が建つ。昭和49年(1974)山岡同族会が建てた。

勢多橋と東海・東山両道を押さえる目的で築かれた近世初頭までの城
戦国時代から織田政権時代まで、山岡氏の居城であった。
遺構などは未詳である。

天下をおさえる要地・勢多橋を守護する山岡氏は、六角氏の被官でありながら、室町幕府や石山寺・園城寺と密接な関係を持ち、隠然たる勢力を持っていた。

上洛に琵琶湖を利用した信長は、「勢多橋」に戦略的な重要性を感じ、天正3年(1575)勢多城主・山岡景隆と安土城主・木村次郎左衛門に末代のために丈夫な橋を造るよう命じた。
材木は、若狭国神宮寺山と朽木山中から切出され、欄干をつけた広さ四間×長さ百八十間余りの橋が架かった。
織田信長政権下でも、山岡景隆が天下普請の勢多橋をまもる城主として活躍した。
信長は京都への往復途次に煩雑に勢多城に宿泊、信長専用の宿泊施設「勢多橋御茶屋」が設けられたとされる。
明智光秀の侵攻に備えるため、城主山岡は勢多城もろとも勢多橋を焼き落とした。

その後、江戸時代には荒廃していた。貞享元年(1684)、天寧という和尚が膳所藩主からこの地を賜って一庵を建て(臨江庵)、宝暦9年(1759)には藩主の別荘となるなど変遷を重ねた。現時、城跡を示す痕跡は無い。
臨湖庵西側の門の瓦には、本多家の家紋・立葵が見え、膳所藩主の別荘だった時代の面影が残る。
同庵の表門脇に建つ城跡碑は、昭和49年(1974)山岡同族会が建てた。
その他、詳細は資料参照のこと。

城跡は瀬田川に近く、大橋にも近い。

ちょっと、道草しながら
本日の歩数 18,949歩   2時間49分    13.2km
消費カロリー 595.0kcal    脂肪消費量 85.0g
 
 
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2012年12月24日 | 番外編

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招福の祈り華麗に 1日から 彦根城博 井伊家の名品並ぶ

2012年12月23日 | 文化財

福を招くとされる竜と鳳凰をあしらった能装束「紺地丸龍と風景文側次」(彦根城博物館蔵)

 招福の願いが込められた彦根藩主・井伊家伝来の品々を紹介する正月恒例の企画展「新年の寿(ことほ)ぎ-吉祥のデザイン」が、1月1日から滋賀県彦根市金亀町の彦根城博物館で始まる。縁起物とされる鶴亀や鳳凰(ほうおう)の意匠を取り入れた美術工芸品など33点を展示する

 中国・清朝の官服を仕立て直した能装束の側次(そばつぎ)は、略式のよろい姿を表し、福を招くとされる竜の丸い文様が紺地の肩と背中に、裾には舞う鳳凰の姿が配されている。日本刀の外装である大小二つの拵(こしらえ)は、長寿の象徴のツルの足皮で鞘を包み、金具類にもツルの柄をあしらった。刀身も「延寿」の名を持つ刀工の作を採用して吉祥尽くしで仕立てている。また、永遠の命をもたらす果実として珍重され、井伊家が家紋としたタチバナと、輝く金地を組み合わせた能小道具「金地橘図扇」も展示する。

 29日まで(会期中無休)。有料。12日午後2時から学芸員のギャラリートークもある。問い合わせは同館TEL0749(22)6100。

http://www.47news.jp/localnews/odekake/2012/12/post-20121223115033.html


聚楽第の石垣、東西に32メートル 自然石で勾配

2012年12月23日 | 探訪「大地の遺産」

聚楽第跡本丸南端で東西32メートルにわたって見つかった石垣(21日午後2時半、京都市上京区上長者町通裏門東入ル)

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、京都市上京区の聚楽第跡で、本丸南端の石垣を東西計32メートルにわたって確認した、と発表した。徹底的に破壊されたと伝わる豊臣秀吉の聚楽第の遺構が大規模に残っていたことになる。自然石のみで積み上げた石垣の整った形からは当時の高度な技術もうかがえる。

 調査地は聚楽第本丸の南端。10月に石垣の一部(約7メートル)が見つかり、さらに東側に掘り進めていた。石は約70個あり、全て切り割りしていない自然石。墓石などの転用石はない。比叡山周辺か大津市・田上山が産地と考えられる。石垣表面は約55度の緩い傾斜できれいにそろっていた。

 石の一辺は約0・7~1・5メートルで、大手門があったとされる本丸南端の中心部へ向かって、順に大きな石が使われていた。「大手門を通るときの見栄えを意識して積んだのではないか」(同センター)という。残っていたのは3、4段分で本来の高さはわからないが、最も高い場所は約2・3メートルだった。

 石垣と背面の土の間には、水はけのために「栗石」という細かい石が敷き詰められていた。石垣に詳しい金沢城調査研究所の北垣聡一郎所長は「秀吉が築いた大坂城の石垣には転用石が使われていたが、聚楽第は自然石のみで勾配をそろえ、美しい。秀吉の権威を示したのだろう。同時代の石垣研究の基準になる」としている。

 24日午前10時~午後3時に現地説明会を行う。現地事務所携帯電話090(9613)4694。

■聚楽第(聚楽城) 安土桃山時代、関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として、大内裏跡で1586年に着工し、翌年完成。秀吉の威を示す豪華絢爛(けんらん)な造りだったとされ、後陽成天皇が行幸した。おいの秀次に譲ったが、秀次の追放と切腹後、徹底的に破壊したとされる。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121221000175


探訪 【安宅の関・安宅住吉神社】2012.12.17

2012年12月21日 | 遺蹟

 

 

亀石

 

日本海・・・なぎ

 

与謝野晶子の歌碑

勧進帳の義経・弁慶・富樫

本日の歩数   5,072歩      52分    3.5km

消費カロリー  171.5kcal    脂肪消費量 24.5g

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有力氏族示す鍬形石 草津・中沢遺跡出土

2012年12月21日 | 遺蹟

中沢遺跡から出土した腕輪型をした石製品「鍬形石」上部(草津市役所)

 草津市教委は20日、同市西渋川2丁目の県立短大跡地の中沢遺跡から、4世紀ごろの腕輪型をした石製品「鍬形石(くわがたいし)」が出土したと発表した。首長の権威を表す石製品とされ、集落跡からの出土は全国で2例目。同市教委などは「大和政権と関係の深い有力氏族が存在し、水辺での祭祀(さいし)に使われたのでは」としている。

 鍬形石は同遺跡南側の川跡から見つかった。高さ8・9センチ、幅8・7センチ、厚さ1・9センチで、下部が欠けていた。

 鍬形石は古墳で副葬品として出土した例があるが、集落跡からの出土は奈良県天理市の岩室・平等坊遺跡だけ。石材は北陸産とみられる凝灰岩で、同じ石材の鍬形石は奈良県と岐阜県に集中している。多量の土器片や木製品とともに川底から出土したことから、祭祀に用いられた可能性が高いという。

 草津、栗東両市にまたがる同遺跡は縄文時代から中世にかけての集落遺跡。鍬形石に詳しい北條芳隆・東海大教授は「奈良と同じ石材の鍬形石の出土は、大和政権との結びつきの深さをうかがわせ、北陸、東海と畿内を結ぶルートに位置し、交通の要衝を押さえる近江の勢力の重要性を示している」と話している。

 1月5~14日、草津市の草津宿街道交流館で展示される(7日は休館)。問い合わせは市教委文化財保護課TEL077(561)2429。

 

http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20121221000021


【探訪】「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」 2012.12.15

2012年12月18日 | 探訪「大地の遺産」

 瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する古代からの有名な橋です。歴史的には「瀬田橋」「唐橋」「長橋」などと呼ばれてきました。

琵琶湖大橋や近江大橋が出来る以前は、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心として近江国庁や近江国一ノ宮(建部大社)が営まれる一方、壬申の乱(672年)や源平合戦(1180~85年)、また本能寺の変(1582年)の後の攻防など、多くの戦いの舞台ともなりました。

 出発式

明治天皇鳥居川小休所址・・・黒の扉の中を覗いてみたい! 

江戸時代看板?江戸時代の石山の街道筋(選挙ポスターが!)

 

石山から、勢多の唐橋(唐茶に塗り替えで綺麗)中之島の句碑  中之島から草津方面中ノ島の唐橋から琵琶湖側に、俵籐太(藤原秀郷の「むかで退治」伝説が・・・)

唐橋を渡る(琵琶湖側、車道渋滞、歩道は無人)

唐橋の下流側から、対岸の摸細工・・・俵籐太

 

太平記巻第二「俊基朝臣再関東下向事」

落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、
........中略..........
憂きをばとめぬ相坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打ち出の浜、沖を遙かに見渡せば、
塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮き舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、瀬田の長橋 打ち
渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れ也。


元徳三年(1331)蔵人右少弁日野俊基卿が、幕府打倒の企てが露見して、鎌倉へ送られる時
の道行きである。
片野の春の桜狩りは大阪の交野の桜を詠んだ藤原俊成の次の歌をふまえて
いる。

明治29年9月23日・・琵琶湖大洪水の時の水位!!!(現在の湖面より5m位高い!)

明治29年(1896)は雨がたいへん多く、1月から8月までの雨量は、平年の一年分に相当する1637ミリを記録していた。

9月になると、寒冷前線が台風の接近によって活発化し、彦根では9月7日から8日までの24時間で、684ミリという未曾有の豪雨となった。

鳥居川の量水標も、平常時が83センチのところ、約4.1メートルに増水し、琵琶湖周辺の各地が冠水、甚大な被害が出た。

写真は、大橋堀の東側、現在の浜町付近の被害状況。子供の腰のあたりまで増水しているのが見える。写真は、大津市内川口町(現浜大津二、三丁目)の被害状況を撮影したもの。写真の場所は、川口町(現浜大津二、三丁目)。住民は蔵の屋根に上って避難し、舟で往来している様子が分かる。

夕照山 西光寺・・・船着場前・・・近江八景「瀬田の夕照」

織田信長が、現在の位置に瀬田(勢田)の唐橋を架けるまで、約100m上流のこの位置。唐橋が掛かっていて・・・橋本町の町名は、現在も使われている。

旧街道・・・東へ行けば建部大社へ

湖面から唐橋を

俵藤太

(別名:「田原藤太秀郷」 「藤原秀郷」)

 

 歩道に、「むかでの図柄」 

歩道に、「むかでの図柄」 

 

膳所城主、本田家(徳川の縁籍)の家紋【立ち葵】

 

瀬田城址に、マンションが!

エンコ(100m地下から湧水・・・多分湖南アルプスの伏流水)エンコ、鉄分を含んでキノコ旧東海道!

たにしあめ(飴の形がタニシに似ている)、味は昔の飴。

 

建部神社へ

 

 

今上天皇お手植えの松(大正)

 

今上天皇お手植えの3本杉(昭和56年)

 

 

宝物殿のお宝 

 

 

 

 

 

 

【滋賀県歴史探訪】:Eコース歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

本日の歩数 17,897歩   2時間50分    12.5km
消費カロリー 759.4kcal    脂肪消費量 108.4g
 
 

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2012年12月16日 | 番外編

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探訪 景清道を、石寺~教林坊まで 2012.12.11

2012年12月12日 | 武将

====景清道====

楽座会館に車を置いて

中仙道の石寺道標

京・奥石神社方面

高宮宿・愛知川宿方面

観音寺城・観音正寺参道・・・「道中安全常夜灯」

観音寺城・観音正寺への参道は、武家屋敷址?里坊址のように石垣が??

景清道・・・安土、桑実寺方面へ

景清道を、今回は教林坊方面へ

危険場所には、鉄針線や虎ロープで!

 

 

 

景清の行止り

観音寺正寺へ登り道

教林坊へ下り道

 

教林坊の墓地

教林坊の上で・・・道がない(仕方無く、引き返し教林坊へ)・・・清水鼻まで行ける筈だが!

竹柵から教林坊

竹柵から教林坊

カエデの黄と赤(落葉前)

 黄葉毯だ・・・。

 赤葉絨毯だ・・・。

教林坊門

教林坊

安土駅方面へ

里坊址か?

 

里坊址か? 

〇に、隅立て四ツ目結 

楽座会館の車に戻り

 

本日の歩数    6,704歩   1時間13分    4.8km

消費カロリー  100.2kcal    脂肪消費量    14.3g

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 佐々木六角氏の家紋考察

2012年12月11日 | 探訪「大地の遺産」

歴史研究・報告
 

 佐々木六角氏の家紋考察

 佐々木六角氏(以下六角氏)の家紋は、現在沙沙貴神社の神紋である「七ツ割・平四ツ目結」と認識していた。
しかし、平成22年度、第2回見学会において、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」である、との提案がなされた。
さらに、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課が主催されている連続講座「近江の城郭‐六角VS織田‐」の各回修了証でも「隅立て四ツ目結」が使用されているのでどちらが正しいかを考察してみた。

                
            隅立て四ツ目結                平四ツ目結
結論としては、確実な史料がないため断言はできないが、「隅立て四ツ目結」の可能性もあると思われる。

「目結」のユイはもともと「結ぶ」の意味である。また、「目結」のメは「間」のことで、タテ、ヨコの交線の間にできた空間、即ち穴である。布地をつまみ、糸を結んで絞り染めにすると回のような目ができる。このカタチを散らしたり、並べたりしたものが、「〇〇目結」と呼ばれている。
目結を家紋として用いたのは、「源平盛衰記」の義経院参の条に、佐々木高綱が三ツ目結の直垂(ヒタタレ)を着ていたとある。その後、目結紋が近江源氏の代表家紋になっていることをみると、模様から家紋に定着していたのではなかろうか。
もっとも、この模様は鎌倉時代には流行していたから家紋に採用したのは佐々木氏だけではなかった。「蒙古襲来絵詞」によると、九州の武士竹崎氏が「三ツ目結に吉文字」、少弐氏が「四ツ目結」を用いている。
室町期の『見聞諸家紋』(室町八代将軍・足利義政の頃にまとめられた家紋集で、『永正幕紋』『足利幕紋』などとも呼ばれている。)には佐々木氏は隅立て四ツ目結とある。

      
これのみを見ると、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」であったといえる。
ところがこの図の傍書きに、宇多源氏、「佐々木大膳大夫」「入道生観」とある。「大膳大夫」は官位名で、六角氏の中でも「満綱」(1401~1445)、「高頼」(1462~1520)が名乗っているが、「入道生観」を名乗るのは佐々木家の中でも京極持清(1417~1470)で官位は大膳大夫である。
このことからは、京極氏の家紋が隅立て四ツ目結ということになる。『見聞諸家紋』の著された足利義政の在位期間(1449~1473)からも京極持清の家紋の可能性は高いといえる。京極持清は応仁・文明の乱では東軍に属し、その功績が認められ、文明元年に近江守護職に補任された。
一方で、佐々木京極氏は江戸時代まで続く家柄で、その家紋は「平四ツ目結」であることは明確である。
六角氏や京極氏は都におけるそれぞれの屋敷地名から起こった名称であり、京極家ではあるが、あくまでも佐々木京極家であり佐々木氏として見なされていたのではなかろうか。
そうであれば、京極持清の守護職も名目上は佐々木氏としての守護職といえる。この時点では、六角氏、京極氏ともに隅立て四ツ目結であったことも考えられる。
六角氏滅亡後に、京極家が平四ツ目結を家紋としたすれば辻褄が合う。京極家が江戸時代まで大名として存続し、家紋は平四ツ目結であることは史料や丸亀城の瓦からも証明されている。
反面、六角氏が滅びたため家紋が隅立て四ツ目結であったという結論は出せないが、可能性はゼロとは言えない。
では、なぜ沙沙貴神社の神紋が「七ツ割平四ツ目結」なのかという疑問が残る。『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』で佐々木哲氏は、
江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたと考えられます。
とされている。
また同誌では上杉本洛中洛外図で見られる四つ目結は、隅立てです。(下図)とも描かれている。

          
                          上杉本 洛中洛外図
これが正しいとすれば洛中洛外図が描かれたとされている永正年間から永禄年間当時は四つ目結は隅立てが使われていて、両家とも佐々木氏として隅立て四ツ目結を用いていたと推定される。
従って、この時期おいては佐々木氏両家とも家紋は「隅立て四ツ目結」であり、その後、六角氏は「隅立て」に、京極家は「平」となった可能性があるといえる。
平成22年度、第2回見学会において、佐々木六角氏の家紋は「平四ツ目結」と申しましたが、「隅立て四ツ目結」であった可能性があると訂正させていただく。なお、これに関するご意見などがあればご教示をお願いします。


参考資料
丹羽基一『家紋大図鑑』 1971 秋田書店
鈴木亨 『家紋で読み解く日本の歴史』 2003 学習研究社
佐々木哲『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』  2004 思文閣出版

                                                   (日吉)

http://ohmikairou.org/col115.html

 


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2012年12月09日 | 番外編

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