城郭探訪

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・瀬田高橋川と建部大社

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

瀬田高橋川

 滋賀県大津市を流れる、淀川の支流。
大津市瀬田神領町の瀬田ゴルフコース敷地内の16号大津信楽線沿いの谷あいに発し北西流。
瀬田一丁目の唐崎公園の中・瀬田川大橋の南で淀川(瀬田川)左岸に注ぐ。
一級河川の起点は大津市瀬田神領町念仏谷。

 源流はゴルフ場のある丘陵。施設の真ん中を細谷が流下する。
川相は三面張り部分が多く、水量は少ない。
川沿いに16号大津信楽線が通じ、この道を南に行くと緩いピークがあり大戸川水系との分水嶺を成す。

大津市神領 建部橋から 左上流、右下流望
建部橋下の川面 大津市神領 なかよし橋から

 ゴルフ場を出た川は、京滋パイパス・名神高速・東海道新幹線をくぐり徐々に川幅を広げてゆく。
上写真上段は近江一の宮・建部大社の脇を流れる高橋川で、参道橋ゆえ華やかな朱に擬宝珠つき。
下段右のなかよし橋も桧山神社脇なので同様の装飾がなされている。
この付近には川へおりるテラス等も設けられている。

大津市瀬田 大前橋から上流望 河口
高橋川合流後の瀬田川 下流望

 最下流部は流れ込み先の影響で湛水。
上写真上段左の、左手の並木は国道一号線のもの。上段右の橋はR1瀬田川大橋。
高橋川が注ぐ付近の瀬田川左岸は唐橋公園になっている。下段写真奥に霞むのが唐橋。

 

 

 

建部大社

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拝殿と三本杉

概史

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅により、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現 東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を建部大神として祀ったのが創建とされる。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座した。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が残っている。

天平勝宝7年(755年)には、大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「近江国栗太郡 建部神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、近江国の一宮として崇敬された。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

明治4年(1871年)近代社格制度において「建部神社」として県社に列格され、同18年に官幣中社、同33年に官幣大社となった。戦後の昭和23年(1948年)には神社本庁の別表神社となり、社名を「建部大社」とした。

なお、昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

境内と三本杉

 幻の千圓札

昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

石囲いの石燈籠(重要文化財)鎌倉時代、文永7年(1270年)の造営。

〈重文〉木造女神坐像

由緒
 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、 又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。 御祭神日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、 遂に三十二才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死を いたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に 記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、 御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが 当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった 当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として 崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、 平家に捕われ、十四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、 永歴元年(1160年)三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が 平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年) 十一月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、 幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、 除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、 明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。 昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。 そして平成二年三月十七日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。


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