日本3大ハゲヤマの田上山 (荒廃状態にある昭和30年頃の金勝(こんぜ)山国有林。白い部分は裸地。)
田上(たなかみ)の枝公園近くの天神川沿いにあります。一見廃屋です。内部の見学には予約が必要です。この地に鉱物博物館があるのは、それなりの理由があります。
もともと田上山は花崗岩鉱物の三大産地の一つに数えられた。水晶は飾り玉にするなどして産物となっていたが、トパーズは加工には向かないために放置されていた。これに目をつけた外国人宝石商が地元の人々を雇って拾わせ、海外に持ち出されたトパーズは明治年間に700kgに及んだ。(田上鉱物博物館資料より)
台風18号(2013.9.16)後の大同川
オランダ堰堤の横に立つデ・レーケの胸像。
デ・レーケが実践した「治水は治山にあり」。
大阪湾に新しい港をつくり、淀川を大型船が往来できる川にするために、明治6年(1873)、オランダからヨハネス・デ・レーケらの技師団が招かれました。淀川のようすを調べたデ・レーケは、港や河川改修に先立って上流の治山が先決であると考えます。
その理由のひとつは、淀川上流にあたる大津市の田上山一帯の荒廃にありました。かつてのスギやヒノキの美林は、古く奈良や平安時代より寺院・仏閣の造営に伐り出され、明治維新後も建材や産業資材を得るために乱伐が続き、山々には木々がなくなっていました。また、この辺りの山地はもろい花崗岩でできているため、保水力を失った山から一気に流れ出る雨水によって、岩は削り取られて真砂となり、洪水時には川筋に大きな被害をもたらしていました。さらに、川の水によって運ばれた土砂が、淀川下流や河口部に堆積し、水上交通を困難なものにしていたのです。
そこでデ・レーケは、山から川へ土砂が流れないように食い止めると同時に、荒廃した山に新たに木を植えるという2つの方法で治山治水を行いました。
http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/oranda_.html
堰堤下流
しかし、堰堤は満杯で砂防の役割はありません。現状は土木遺産・森林公園(桐生若人の広場)です。