城郭探訪

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下鈎城 近江国(栗東)

2016年03月19日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市下鈎町甲 map:http://yahoo.jp/VwztlJ

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:連台寺氏

目標地:称名寺

駐車場:下鈎甲自治会館

訪城日:2016.3.17

 

お城の概要

下鈎集落にあったとされる平城。 築城時期など、詳細不明。

『滋賀県中世城郭分布調査3(旧:野洲・栗太郡の城)』には、下鈎城「奥屋敷」「殿ノ後」の小字名が在存し「近江栗太郡志」には連台四寺氏の邸跡としている。、水路が鉤状に巡らされている。

お城の歴史
蓮台寺氏の邸宅であった。

『佐々木南北諸氏帳』に、「栗太郡 下鈎 住 元丹州武士 西沢喜重郎」の名を記す

下鈎と中山道
 慶長 5 年(1600)、関ヶ原の合戦で勝利を収めた徳川家康は、慶長 6 年(1601)に東海道、翌慶長7年(1602)には中山道の宿駅制度を定め、江戸日本橋を起点とした五街道の整備を進めた。
中山道の、江戸から武蔵国(埼玉県)上野国(群馬県)信濃国(長野県)美濃国(岐阜県)を通り近江国(滋賀県)草津で東海道と合流し、京都に至る 69 次、約 132 里(およそ 528km)であった。
東海道と中山道の 2 つの街道が通っていた栗東の村々は、草津、守山、石部の各宿の助郷にあてられていた。下鈎村は、草津宿の助郷とされ、草津宿で人馬が不足した場合にはこれらを提供する役割を担っていた。参勤交代や、朝鮮通信使の通過に際しては、国役金(臨時の税)が課
せられることもあり、村々にとっては非常に大きな負担となっていた。
幕末期の文久元年(1861)には、公武合体のため14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮の行列が、中山道を通って江戸へと向かった。総勢 2,000 人を越える大行列の道中に、幕府では万全の準備を期し、助郷の村々からも人足と費用が徴収された。和宮の行列は、数日かけて無事栗
東の村々を通過していった。

  

称名寺

称名寺:滋賀県栗東市下鈎386

真宗仏光寺派。延宝 4 年 (1676)僧実祐開基。本尊は阿 弥陀如来像。

  

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、下鈎の歴史、遺跡ウォーカー、さきろぐ

 
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