城郭探訪

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『~歴史の要所~ 勢多唐橋(せたのからはし)』

2014年10月29日 | 講座

『~歴史の要所~ 勢多唐橋(せたのからはし)』  講師:杉江 進さん
 日本三大名橋に数えられる勢多唐橋の歴史は古く、壬申の乱(672年)には戦場として登場します。東国から京都に入るときの瀬田川に架かる唯一の橋として交通の要所とされ、戦争の際には何度も焼失の憂き目をみました。長い歴史を有するこの勢多唐橋についてお話しいただきます。

瀬田の唐橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 
瀬田の唐橋
 
『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている。

歴史と伝説

東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
  • 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
  • 治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。

文学

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は平安時代の連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

【武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋】

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

【五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋桁の忍は 月の名残り哉】

明治28年

本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!



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