城郭探訪

yamaziro

島川南城(南殿城) 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

秦荘西小学校のグランドに東角に建つ石碑だが、外側を向いていて助かる

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町島川   (旧愛知郡秦荘町島川) map:http://yahoo.jp/gT1sTZ

別 名:南殿城

現 状:秦荘西小学校

遺 構:石碑

区 分:平城

築城期:室町期・明応5年(1496)

築城者:伊庭貞隆

城 主:矢守壱岐守・喜多川弥介 

城 域 :南城 50m×50m

廃城期:織田信長は近江に進攻した元亀年間(1570~73)頃

目標地:秦荘西小学校

駐車場: 島川神社・路上駐車

訪城日:2014.8.23

 

お城の概要

島川城は、宇曾川と南川の合流点に築かれた城で、100m隔てて南北両城にわかれている。

南城を南殿城、北城を北殿城という。南殿城が平素の居館で、北殿城が戦闘時の城の役割を果たしていたようだ。

現在石碑の建つ小学校付近は南城だが遺構はない。もともと南城は小ぶりな城であったようだ。

島川南城は、秦荘西小学校敷地に築かれていた。 小学校校舎建設の際には発掘調査もされたようだが、現在は城の遺構らしきものは何も残っていない。 

 小学校グランドの北東角に島川城の城石碑が外向きに建てられていた。(道路側からフェンス越しに写真を撮ることになる) この南城と集落の北側にある島川北城が、南北二つの城が並んで存在していた。

 島川北城は、明応5年伊庭貞隆によって築かれた。 その後、矢守壱岐守・喜多川弥介が在城、元亀年間に廃城となった。

歴 史

明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方、政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。このため、近江国内においても六角氏と京極氏の争いが激化した。

明応5年(1496)、六角氏家臣の伊庭城主:武将伊庭貞隆は愛知郡秦荘町島川へ出陣した際に築城した。六角方の諸将を集めて京極氏と戦端を開いた。

元亀年間(1570-73)城主が喜多川彌助のころ、織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。

 

近江愛智郡志には、島川氏。島川氏は出自分明ならず島川村に住し依て氏とす。

文献には南北朝時代より見ゆ。即ち壬生文書康應元年十二月愛智郡主殿寮の領地押立保の年貢米を押領し依て幕府より押領停止の命を受けし島川某あるに見るも当年権勢の一家たるを知る。又應永十七年三月永源寺領八木郷の名代織の請状に嶋川性圓なるものあり共に荘園世話役となりて在すろ見る。

南北朝の戦乱より地方豪族が社寺公卿等荘園の可司や預所となり貢米の横領を敢て爲なしたるを覗ふ可きなり。島川城址の存在する所以ありと謂ふべし。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


最新の画像もっと見る