城郭探訪

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探訪【賤ヶ岳砦・古戦場】 2012.10.26

2012年10月27日 | 戦国山城

  

柳ケ瀬へ
滋賀県側への道はつづら折で下っていく。急峻である。この道で朝倉義景軍は織田信長軍に追いつかれ、さんざんに打ち破られた。夏草にほとんど覆われている。下山すると、近江国最初の宿場町、余呉町柳ケ瀬集落、北国街道(国道365線)沿いにある。北国街道はしばらく北陸自動車道に沿って、ほぼ直線の緩やかな下り坂(廃線跡の道)で南下する。余呉湖に向かう道だが、右手に連なる山々に柴田軍の各将が砦を築き、籠もった。行市山には猛将佐久間盛政、別所山は前田利家、金森長近、柴田勝正等も陣取った。

余呉湖
激戦地余呉湖に着いた。余呉湖は西北に新明山、東に大岩山、そして南は賎ヶ岳、周囲をそれらの山にかこまれている。静かなたたずまいを見せている。
羽柴秀吉軍はこれらの山々に布陣していた。これらの布陣から賎ヶ岳は羽柴軍の戦略ポイントとなる。賎ヶ岳攻略をめぐって余呉湖畔で激しい戦いが行われた。殆どの激戦、局地戦はこの湖畔で行われたことから、「余呉の庄の戦い」と敢えて名づけるむきもある。

木之本・賎ケ岳
余呉湖の南東には、羽柴秀吉本陣、弟羽柴秀長の陣のあった木之本町がある。木之本町から北陸道(国道8号線)を西に、琵琶湖方面に向かうと賎ケ岳の南側麓に着く。そこから、リフトで一気に賎ヶ岳山頂に登れる。ケーブルを利用せず登山道を歩く。峻険な山肌をつづら折りで登る。鬱蒼とした杉木立から冷風が送り込まれて来る。もし、柴田軍がこの賎ケ岳を攻略していたなら、木之本、琵琶湖北岸、西浅井郡を扼することができた。この峻険な道がそれを想わせる。

賎ケ岳の攻防
佐久間玄蕃政盛は大岩山攻略の後、賎ケ岳を攻めようとしたが、琵琶湖大音から丹羽長秀が来援して阻まれた。その間、信じられない時間(同日夜)に羽柴軍本隊の美濃からの大返しがあった。賎ケ岳の死守は勝利のポイントとなった。

 

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   賎ケ岳より琵琶湖
丹羽長秀この方面から賎ケ岳を守る

ファイル:Battle of Shizugatake pic in Mount Shizu 2009-02-08.jpg

布陣

3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。

一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。

双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出した為、戦線は膠着し、3月27日(5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。

賎ケ岳より余呉湖・・・柴田陣vs羽柴陣

美濃返し

4月16日(6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。

ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられた秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。                秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。

大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。

この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。

4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。

これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他に無いと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。                            

長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。

更に同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動した

この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。

盛政の軍は奮闘、更に柴田勝政の救援もあり撤収に成功、その為、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となった。

ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。                                                理由は諸説あるが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であったが、勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説である。                                                                                                                        このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

賤ヶ岳山頂で記念撮影(遠足中の中学生と)

   

    

   

   

本日の歩数 20,144歩   3時間25分    14.1km

消費カロリー 558.9kcal    脂肪消費量 79.8g

 

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