城郭探訪

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佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一

2012年08月21日 | 武将
三雲氏
●軍配団扇に一文字
●武蔵七党児玉氏後裔 
図柄は「寛政重修諸家譜-家紋」から作成。  



 戦国時代、江南の戦国大名であった佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一、児玉党の分かれと伝えられている。

玉党は藤原内大臣伊周の子伊行が児玉を称したことに始まるといい、児玉家弘はのちに庄を称し、その子弘方は浅見(阿佐見)氏を称した。その子浅見太郎実高は源頼朝に仕えて奥州征伐に従い勲功を挙げ、建保四年(1216)十二月左兵衛尉に任じた。


 浅見氏は武蔵国児玉庄をはじめ、上野国高山庄、吾妻郡中山村、越後国荏保等の地を領した。その後、実高六代の孫家実は関東より越後国に赴いた。おりしも一揆が起こり、家実は守護に属して一揆討伐に功を挙げたと伝えられる。家実は応永四年(1397)に死去したとあることから、南北朝時代を生きた人物であった。

三雲氏の登場

 家実ののち三雲氏の動向は知れないが、寛政重修諸家譜によれば明応年中(1492~1501)、新左衛門実乃(さねのり)が甲賀郡下甲賀を領して三雲に住した。そして、地名にちなんではじめて三雲を称した。その子源内左衛門行定は下甲賀ならびに野洲・栗太両郡を領して、三雲に築城してそこに拠ったという。かくして、近江国甲賀郡に土着した三雲氏は、甲賀五十三家の一つに数えられ、その領地の高は実に九万石であったという。


 とはいえ、寛永系図に記された三雲氏の伝承はそのままには受け取れないものである。郷土誌などによれば、三城雲は長享元年(1487)、足利義尚に攻められた六角高頼が、三雲新左衛門典膳実乃に命じて築かせたとある。

府軍との直接対決を避けて甲賀に逃れた高頼は、本城観音寺城の詰めの城として三雲典膳に城を築かせたのであった。義尚の六角攻めは鈎の陣と呼ばれ、三雲氏ら甲賀五十三家の武士たちは、六角氏に属して鈎の陣を夜襲するなどして散々に幕府軍を悩ました。


 近江国甲賀郡の各地に割拠して甲賀五十三家と呼ばれた武士たちは、勢力をたくわえ地縁、血縁で結ばれ、戦国期には六角氏の麾下に属して活躍した。とくに青木・山中・隠岐・池田・和田、そして三雲の六家は大身で甲賀六家と呼ばれた。また、先述の鈎の陣に殊勲のあった二十一武士は、甲賀二十一家と称され三雲新蔵人がその一に数えられた。

このように三雲氏は、甲賀武士の一として相応の地歩を築き、典膳実乃のころには六角氏から厚い信頼を受ける存在となっていた。

しかし、九万石という所領高は破天荒に多過ぎるものといえよう。

三雲城 縄張り

典膳実乃の築いた城ははじめ吉永城と呼ばれ、実乃のあとを継いだ行定がさらに整備し三雲城と呼ばれるようになったらしい。

 ●三雲城遠望 ●三雲城への道標・虎口の石組・あちこちに土塁が確認できる・古井戸の跡、底には落ち葉が。


行定の名乗りは六角定頼(1495~1552)の一字を賜ったと推測され、六角氏家中に重きをなしていたことがうかがわれる。


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