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城郭探訪

yamaziro

狐塚陣 近江国(余呉)

2013年05月12日 | 陣城

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町新堂 map:http://yahoo.jp/OaFoCw

区 分:陣所

現 状:墓地

築城期:織豊期

築城者:毛受氏

遺 構:馬印形木版の説明板

陣 主:毛受兄弟(兄毛受茂左衛門、弟・毛受勝照(通称 勝助)、弟・庄兵衛の事)

訪城日:2013.3.19

お城の概要

 現状は墓地になっているが、馬印形の木版に説明板がある。

お城の歴史

柴田勝家の敗退 賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

佐久間玄蕃の奇襲攻撃に合わせて、勝家は玄蕃尾城から狐塚まで本陣を進めていた。その数六千。

戦いが劣勢となるや勝家本陣の兵は離反者が相次ぎ、いつの間にか三千人に減っていた。
佐久間玄蕃勢が壊滅した今、秀吉勢4~5万人が勝家本陣に攻め寄せて来る。

毛受勝照は兵二百人で勝家を逃す時間稼ぎのため、勝家の馬印を譲り受け、敵に勝家の本陣と思わせ敵を一手に食い止める。
もはや勝照には如何にして死に花を咲かせるか。その事しか念頭になかった。

敵を何度か追い返すが、最後には敵の真っ只中へ自ら討ち入ったのであった。
勝照ら二百人は一兵余さず討死にしたと云う。毛受勝照 享年25。

賤ヶ岳の合戦時、柴田軍の最終本陣

 柴田軍攻撃

 佐久間軍、虚を衝かれる・・・(秀吉の大垣から5時間の大返し)

 春霞にその稜線を希薄にしている伊吹山が遠望できる。その夜、信じられない時間に、山麓と思われるところから麓の木之元まで羽柴秀吉軍の松明、篝火群が現れたのである。(3月20日夜である。早くとも21日が当時の常識だった。)

 守備についていた羽柴長秀の羽柴軍も加わって、そのまま秀吉軍は佐久間軍に襲いかかった。佐久間軍は戦線を固めるべく退きながら、よく戦い戦線を立て直そうとした。

 後狐塚に押し出している勝家本隊、別所山から茂山に進出していた前田利家等と戦線を結ぼうとした。しかし、柴田勝政軍が羽柴軍に攻められ、苦戦に陥った。それに支援するため、佐久間軍は返した。 

 前田利家撤退 しかし、賎ケ岳の戦いはここまでであった。前田利家軍の戦線離脱である。集福寺口に移動した。それによって戦いの帰趨が決定付けられた。佐久間軍は乱れた。本陣の柴田勝家からも佐久間、柴田勝政軍の総崩れに見えた。前田利家は羽柴秀吉の朋輩でもあったが、突然の離脱については諸説がある。ともあれ、前田利家は集福寺口から塩津街道(現国道8号線)を経て敦賀へ、木の芽峠を越えて越前府中(現越前市)に帰還した。

 狐塚から勝家本隊も後退した。柴田側の総崩れとなる。

 柴田軍北国街道を敗退 柴田軍は雪崩を打って崩れ、柴田勝家は北国街道椿坂峠を敗走する。この北国街道は、勝家が近江への軍用道路として整備した道でもある。そして越前北の庄(現福井市)まで羽柴秀吉の追撃を受け、城とともに滅んだのである。

  • 玄蕃尾城から狐塚に進出した柴田勝家本隊に、佐久間軍敗退の報が届き、秀吉軍の包囲網が迫ると、勝家方の兵は動揺し、逃亡するものも多く、兵力は減少し、もはや秀吉軍に決戦を挑むことすらできない状況に陥っていた。
  • 討死の覚悟を決めた勝家だが、家臣の毛受勝照が懸命に諫めた結果、側近とともに栃木峠を越えて越前に逃れた。
  • その間、「金の御幣の馬標」を受け取った毛受勝照は、身代わりとなって僅かの兵で秀吉の大軍を惹きつけ奮戦し、全滅した。
  •  毛受氏は、林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城に陣取った。

毛受兄弟の墓 map:http://yahoo.jp/FvqCf0

 

 勝家は、府中(武生)では、前田利家の元に立ち寄り、利家の裏切りを責めることもなく、永年にわたる利家の友誼を謝し、お市の待つ北ノ庄城に戻り籠城の準備をした。

狐塚本陣跡

位置:北陸道の上に掛る陸橋の西側

毛受兄弟の戦跡。

林谷山砦は土塁を400m連ねた、生々しい陣城で、中谷山は竪土塁が異様な迫力です。

賎ヶ岳合戦古戦場の林谷山砦、中谷山砦、茶臼山城、狐塚本陣


おまけ【丹生ダム建設の推移】の碑

参考資料:賤ヶ岳合戦記、滋賀県中世城郭分布調査

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


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