城郭探訪

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池之脇城   近江国(永源寺)

2016年01月30日 | 平山城

お城のデータ

所在地 : 東近江市(旧神崎郡)永源寺町池之脇 map:http://yahoo.jp/AYKQ0o

区 分:山城

標 高:280m 比高差:60m  

築城期:戦国期

築城者:

遺 構:堀切、横堀、土橋、土塁、竪堀

訪城日:2016.1.5・2016.1.9

お城の概要

現長寿寺の南およそ150mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。
山頂の山城は、主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

遺構A

主郭部

南側の低土塁

堀切

歴 史

寺院付属の城郭である。横堀の存在から永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に応じて築かれたと考えられている。

 

遺構B

現長寿寺(池乃脇集落)の、南およそ400mの山頂部を山城が占め、東側の山腹に元亀年間の兵火により消失したとされる東大寺末の荘厳寺支院「長寿寺」跡が残っている。

 城址は、ハイキングコースコース・山麓を大型重機で削られ尾根筋は、大きく破壊されしまった。その他は、何とか遺構が残存している。

 山頂の主郭が変形した長方形で、背後を大きく堀切った単郭式である。比高差およそ2.5mの切岸の裾には巾およそ1.5m、深さ0.5~0.6mの形式だけの横堀が断続的に巡っている。比高も小さく、外周には土塁もなく、見張り台的な機能を担ったと思われる。

池乃脇集落の南に向かって70m程の所に「ひつじ公園」がある。さらに道なり進むろ営農倉庫があり、その左手の東側280mの尾根上のピークが城跡。

 

ここに駐車

長寿寺: 滋賀県東近江市池之脇420

 応仁の乱が治まった文明9年(1477)には佐々木高頼による寺領の安堵書が残されている。

 その後戦国期に信長の兵火により寺坊ことごとく灰燼に帰したが、江戸時代に入り、現在地に残された萬寶院を秀圓法印により、万治2年(1659)に再建された。現在の本堂は明和4年(1767)に改築され、内陣に円柱を建て須弥檀を構えた中古の形式を持ち、祀られている仏像の多くが羅災のあとを残す、本尊観世音菩薩は、平安中期の作で、県文化財に指定されている。 内

また、赤穂神宮寺の僧俊惠が在住したことから、赤穂四十七士にまつわる「大石内蔵助」の書翰や関係文書が残されている
平安時代悲劇の主人公文徳天皇の皇子惟喬親王にまつわることや、僧俊惠と近江商人松居久治郎の逸話を残す寺である。

 長寿寺は東近江市池之脇町にある天台宗寺院です。その謂れにつきましては、『永源寺町史 通史編』に「長寿寺の開基は聖徳太子とされ、慈覚大師円仁が中興し、現在の寺地より五〇〇メートルほど離れた本堂谷付近に伽藍を築いたが、元亀・天正年間(1570~92)の兵火で焼失後衰退したと伝えられている。」とあります。

 また、明治42年(1909)に田中長八が記した「高木風土記」(田中滋家所蔵)には、長寿寺は天平九年(737)に高木に建立された荘厳院の末寺であり、16世紀末の戦乱で荘厳院が焼失した際に残った僧坊の1つが長寿寺であると記載されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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